前回投稿では、わが津幡町の最北部に位置する地区「河合谷(かわいだに)」の風景を紹介した。
木窪川(きのくぼがわ)と瓜生川(うりゅうがわ)。
二本の川が合流する地点を「河合」といい、地名になったと伝わる河合谷は、
標高400~500mの山々が連なり森に守られたような地形。
間近に熊や鹿、猪などの野生獣が生息する山懐は、
薪・炭などの燃料源となり、山菜や果実といった食糧採集の場所にもなる。
危険と恩恵が共存するそこは、俗な街中からすれば別天地。
長年、人と山が深く関わり合いながら暮らし、
古くから伝わる文化・伝統を継承してきたと推測する。
同地区、河合谷ふれあいセンター内の「祭事の館」で、その一端が窺えた。
展示ホールには、河合谷の各集落で受け継がれてきた祭具、
獅子頭、神輿(みこし)、面、雅楽の楽器などが並ぶ。
河合谷は、昭和29年(1954年)津幡町に編入する以前は「羽咋郡 河合谷村」。
更に以前は、大田村、下河合村、上河合村、牛首村、瓜生村に分かれていた。
獅子舞にもそれぞれに流派があり独立して伝承されてきたが、
取り分け異彩を放つのは上河合地区の「牛舞坊(うっしゃいぼう)」である。
12世紀、源氏と平氏が武家の覇権を争った内戦のさ中、
現在の石川県・津幡町と富山県・小矢部市を分ける倶利伽羅峠で合戦が勃発。
そこで、源氏方が採用したとされる奇策が「火牛の計(かぎゅうのけい)」。
角に燃え盛る松明を括り付けた牛を敵陣に突撃させ、
大混乱を演出し勝利を収めたという。
作戦遂行の為、上河合からも大切な牛が問答無用で徴収された。
勿論---“特攻兵器”として使い捨てられた牛が帰ってくるはずもない。
古くは、牛を神仏・神仏の使いと崇める風習があった農民たちは悲嘆に暮れ、
冥福を祈り仏僧に供養を頼んだ。
その際、僧と農民が一緒に、藁(わら)で形作った牛を引きながら舞ったのが、
「牛舞坊」の始まりと伝えられる。
やがて、牛の頭には、穀物をふるい分けるザルのような農具「箕(み)」を、
胴体には獅子舞用の蚊帳を用いるようになった。
素朴で哀愁漂う「牛舞坊」の舞いは、鎮魂と平和祈念のダンス。
是非、目の前で鑑賞してみたいと思うのだが、現在は叶わない。
人口減、少子高齢化により催行されていないのだとか。
それは、何とも寂しいハナシなのである。
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