花の公園・俳句 ing

日本は素晴しい花の国。美しい花々と公園、四季折々の風景を記録したいと思います。我流の俳句は06年3月12日からです。

左右両極からの、戦争と天皇に関する本

2014年05月20日 22時28分06秒 | 本、HP制作、写真のアップ       
左右両極からの、戦争と天皇に関する本2冊、
「総点検 日本の戦争はなんだったのか」 吉岡吉典 (新日本出版社、2007)
と、非常識発言で話題の、NHK経営委員になる前の長谷川三千子女史の本、
「神やぶれたまはず」  (中央公論新社 2013年)。

「明治のはじめから1945年まで、戦争に次ぐ戦争を繰り返した」 日本。
吉岡氏によると、明治以来最初の対外出兵 (戦争) は1874年の台湾出兵でした
が、これについてインドの元首相で歴史家のネルーが、明治政府成立のわずか
6年後、日米修好条約による 「開国以来20年もたたないうちに、日本は中国に
対して侵略的態度を取り始めた。(中略) 日本は産業の方式においてばかりで
なく、帝国主義的攻撃のしかたについても、ヨーロッパのあとを追った。日本
人はヨーロッパ列強の忠実な弟子以上のものであり、しばしばその上を行きさえ
したのだ。」 (「父が子に語る世界歴史」4 169p) 
として、大いに驚いていると書いています。

大東亜戦争について右派の人たちのいう 「自衛戦争」 論について吉岡氏は、
「明治のはじめから1945年までの間に、(1945年の) 沖縄戦以外は外国から武力
攻撃を受けての地上戦は一度もありません。(中略) 侵略されたことがない国
の自存自衛の戦争というものがあるでしょうか。」 (19p) として否定しています。
戦中の1940年に反軍演説で衆議院を除名された民政党の斉藤隆夫代議士は、
「日本の大陸発展を以て帝国生存に絶対必要なる条件なりと言わんも、自国の
生存の為には他国を侵略することは可なりとする理屈は立たない。若し之を正義
とするならば切取強盗は悉く正義である。」 (「斉藤隆夫政治論集」 233-234p) 
と書いているそうです。
まったくその通りで、誰でも分かるまともな感覚だと思います。

これを今日においてなお、当時は帝国主義時代だから植民地獲得は当然だ、と
大きな声で主張する人たちがいて、安倍総理を応援しているのですから、どう
しようもありません。
安倍総理は、「侵略の定義は定まっていない」 と発言して問題になりましたが、
本当にそう思っているのでしょう。そんな人が集団的 「自衛権」 の行使に向け
て解釈改憲に熱心なのですから、危なっかしいと思うのは当然です。
「自衛の定義は定まっていない」 というのが正しい理解ではないでしょうか。

また右派の好きなアジア解放の戦争という見方も、朝鮮・台湾・満州を見れば
わかる通り、お題目に過ぎなかったことは明白です。私も林房雄の 「大東亜
戦争肯定論」 (中央公論、1963-65) を学生の頃読んで、そういう見方もある
と感激したものでした。しかしよくよく研究してみればそれは単なる結果論で
あって、そのために日本が戦ったわけでは全然ないのでした。

吉岡氏は日本の度重なる外征と、第一次世界大戦後の 「戦争を違法とする」
国際的な動向について明晰な分析をしていますが、一つだけ満州事変について
書き漏らしていると思われることがあります。
それは、山中恒著「 アジア・太平洋戦争史-同時代人はどう見ていたか」
知った、昭和天皇が満州事変の翌年1932年1月8日に関東軍に賜った勅語です。
昭和天皇は関東軍の活動を大いに称賛し、引き続き天皇の信頼に応えるよう
訓示しています。これは関東軍の独断専行への事後承認でありお墨付きでした。
天皇の戦争責任をきびしく問う共産党理論派の吉岡氏が、この勅語を見落とした
のは惜しいことです。

もう一つ気づいたことは、宣戦布告なき開戦は真珠湾だけではなかったという
ことです。真珠湾の「1時間10分前の午前2時15分にマレー半島 (英領) への
奇襲攻撃・上陸作戦を始めた」のです (188p) が、英国に対する宣戦の遅れに
ついて問題にする人はいません。しかし対米の真珠湾と対英のマレーと、いず
れも宣戦布告前であったことはわが国が最初から奇襲作戦を狙った証明と
いわなければなりません。


一方の長谷川女史は哲学者ということで、多少史実に甘いのは我慢するとして
も、戦争についての認識があまりに綺麗ごと過ぎるのではないでしょうか。

最初に折口信夫の詩 「神やぶれたまふ」 をこう批評します。
「神々に助けを請ひ、ともに戦ってもらひながら、信うすくして神々のもつ
力を存分に発揮してもらうことができなかったわれわれが、戦いに敗れたから
とて、そのまま神々を忘れ去ってしまふとしたら、それはさらに二重の背信
行為ではないか。」 (18P) 折口氏は戦後このような反省と覚悟を基にして、
あたらしい神学の構築への努力を進めていったはず、とします。

しかし、女史が 「神やぶれたまふ」 の核心部とするこの一節、
   日高見の国びとゆゑ、
   おのづからに神は守ると 
   奇蹟(マシルシ)を憑む 空しさ。
   信なくて何の奇蹟―。

この、当然に神が守ってくれると恃んでいたという説に女史は猛反論します。
「『靖国のこえに耳を澄ませて』 という本の中に登場する 「若き軍人たちは、
みな、しっかりと自らの目で自らの死を見つめ、まさに 『覚悟』 という
言葉の本来の意味での覚悟をつかみ取って、あるいは特攻機に、あるいは
回天に乗り込み、またあるいは危険な偵察の任務のうちに命を散らしていった
人々である。」 (22P) 「それがどうして、敗れたとたんに、『神風が吹くと
他力本願のことばっかり言って、自分の裡からの信仰心を全然持ってない』 と
いうことになってしまうのか。」 (19P)
こう批判して、タイトルを反語の 「神やぶれたまはず」 にしたわけです。

どうも彼女は、現人神である天皇のために戦った日本人は、ある種の 「絶対的
宗教経験」 を得たのだ、と言いたいらしい。
「大東亜戦争はけっして単なる、他の手段をもってする政治などではなく、
ある絶対的な戦争だったのだといふこと、そしてもし 『日本の神学』 といふ
ものが構築されうるとすれば、その基はこの絶対的な戦争の経験以外のところ
には見いだされえない、といふことである。」
 それは 「いはゆる 『聖戦』 -崇高なる目的のために遂行される戦争- のこと
ではないし、かと言ってもちろん、『侵略戦争』 『悪い戦争』 といったものでも
ない。しかし、(中略) 大東亜戦争のうちには、確かに、さうした 『絶対的なもの』
が含まれていたのである。」 (29p)
 
「絶対的なもの」 とは、明記はされていませんが、どうも特攻や玉砕に散った
人たちの、神としての天皇陛下を思う心情を指すらしい。あの悲惨な戦争を賛美
し、「宗教体験」 として意味づけようというのですから、哲学者というより教祖
がお似合いでしょう。しかし 仮に 「日本の神学」 が成り立つとしても、決して
大東亜戦争を基にして構築されてはならない、と私は思います。

そして昭和天皇の御歌、
   身はいかになるともいくさとどめり ただたふれゆく民をおもひて

など4首を解説して、民を思う天皇の大御心を賛美しています (272p~) 。
しかし、「もう一勝負してから」 と何度も講和の機会を見送り、東京大空襲
でも沖縄戦でも国民を思いやった形跡のないのが実際の昭和天皇でした。
講和の最後の決心は沖縄戦のあとに自分で考えた雲南作戦が不可能になった
から (昭和天皇独白録) というのですから、あきれるような話で、大御心も
底が割れています。講和後、自分が安全になってからこのような歌を詠んだ
からといって、とても鵜呑みにできるはずがありません。
最後の最後まで国体の維持を唯一の講和条件にした昭和天皇は、自己満足
的な思い込みで 「身はいかになるとも」 などと詠ったのでしょう。理想の
王でも神でもない、ただの凡人だと私は思います。
しかも「国体護持の思想」 を長谷川女史は、日本政府が国民に敗戦を受け
入れさせるために 「どうしても必要な詐術であった」 (259p) と強弁するの
です。長谷川女史は真実に迫ろうとしていないし、時系列の事実関係を全く
考慮していません。神を崇めるのに、客観的事実が邪魔物であるのは確か
ですが。

まさか天皇をふたたび神として崇める時代は来ないと思いますが、長谷川
女史のような人たちが安倍総理のお友だちとして各界で活躍しているのです
から、油断はできません。付和雷同する日本人の性格は、残念ながらそれほど
変わっていないのではないかと思います。
        (わが家で  2014年4月20日)
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