久しぶりに、邪馬台国のことを。安本美典 「邪馬台国は 99.9% 福岡県にあった」 (勉誠出版、2015)。
安本氏は邪馬台国九州論の旗頭ともいえる人です。この本ではベイズの統計学を適用して邪馬台国の存在確率を算出しています。採用するデータは魏志倭人伝に記載があり、遺物として残る可能性のある物品で、次の4種。
① 10種の魏晋鏡 (三角縁神獣鏡は年代に疑問)
② 鉄類
③ 勾玉
④ 絹類
これらの出土遺物数の割合をベイズ統計学で積算すると、邪馬台国の存在確率は福岡県が99.9%、奈良県はなんと0%になる、ということです。残りの0.1%は佐賀県です (74-75p)。
統計学を歴史学に応用した斬新な手法は学会で話題になりましたが、考古学の、それも邪馬台国関西説派の学者間では、新しい遺物・遺跡が出たわけではない、データの設定次第で確率はどうにでも変わる、ということで、ほとんど無視されているようです。しかし、魏志倭人伝に記載されている物品をもれなく洗い出すなど、氏の所説は丁寧で説得力があります。
私が思うに、奈良県説の最大の根拠は ①炭素14年代法や年輪年代法に拠った歴史民俗博物館研究グループの発掘遺物の年代鑑定で、箸墓などの纏向遺跡が従来説を100年ほどもさかのぼる卑弥呼の時代である3世紀半ばとされたこと、また ②三角縁神獣鏡の同氾鏡分析により、奈良県が三角縁神獣鏡の頒布の中心地とされたこと、が大きな要因です。
しかし歴史民俗博物館研究グループの分析は恣意的で、箸墓出土のヒノキの年代により3世紀半ばとしたわけですが、同じ箸墓出土の桃の核の分析では4世紀半ばということになるそうです。(186-187p) 新しい遺物がその遺跡の年代判定の基準になるのは当然です。しかも炭素14年代法には炭素14濃度変動やサンプル選択の問題があり、年輪年代法には比較対照する較正曲線が大きく波打っていて該当年代にかなり幅があり、年代を断定することは困難なはず。遺跡の建設年代を100年遡らせなければ、三角縁神獣鏡の分析も意味をなさなくなります。(なぜ卑弥呼遣使の年号がある三角縁神獣鏡が奈良県から全国に分配されたように見えるのか、の疑問は残りますが)
ものごとは大要を把握することが肝心です。そもそも魏志倭人伝には、女王国は帯方郡から1万2千余里とあり、奈良県は倭人伝の距離単位で測ってさらに1万里以上も遠く、2万数千里のかなたです。白髪3千丈の中国で、距離をわざわざ半分以下に表記するでしょうか。また倭国は周旋5千余里とあります。福岡周辺から奈良県まで1万里以上もあるのに、周旋5千余里は全然ありえません。九州島ならちょうどそれくらいです。奈良説派はこうした数字は無視して、卑弥呼の塚が径百歩というのにはこだわり、奈良にはあるが九州にはないという話になります。
すでに漢の時代から九州に政権が存在し、朝貢して漢委奴国王の金印をもらいました。卑弥呼の時代には、東方にまた国あり、みな倭種なり、とあって、邪馬台国政権が倭国全土を支配していなかったことも確かです。邪馬台国が奈良県にあり、九州諸国を統合・征服したなら、そのことが全く説話として伝わっていないのは不思議です。逆に、九州から奈良へ攻め込んだ神武東征伝説が官製史書である日本書紀と古事記に載っており、神武は征服者だと明記しています。神武より先に天下っていて奈良で神武に降伏したニギハヤヒは物部氏の祖で、物部氏は九州系といわれています。
奈良県説の学者の中には、魏志倭人伝は参考にならない、無視してかまわない、という人もいるほどです。それでいて邪馬台国を探して、奈良だという。疑問符いっぱいの歴史民俗博物館研究グループの発表を鵜呑みにすることは、安本氏の指摘のように旧石器偽造事件のようになりかねないのではと危惧します。
(わが家で 2016年6月4日)
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安本氏は邪馬台国九州論の旗頭ともいえる人です。この本ではベイズの統計学を適用して邪馬台国の存在確率を算出しています。採用するデータは魏志倭人伝に記載があり、遺物として残る可能性のある物品で、次の4種。
① 10種の魏晋鏡 (三角縁神獣鏡は年代に疑問)
② 鉄類
③ 勾玉
④ 絹類
これらの出土遺物数の割合をベイズ統計学で積算すると、邪馬台国の存在確率は福岡県が99.9%、奈良県はなんと0%になる、ということです。残りの0.1%は佐賀県です (74-75p)。
統計学を歴史学に応用した斬新な手法は学会で話題になりましたが、考古学の、それも邪馬台国関西説派の学者間では、新しい遺物・遺跡が出たわけではない、データの設定次第で確率はどうにでも変わる、ということで、ほとんど無視されているようです。しかし、魏志倭人伝に記載されている物品をもれなく洗い出すなど、氏の所説は丁寧で説得力があります。
私が思うに、奈良県説の最大の根拠は ①炭素14年代法や年輪年代法に拠った歴史民俗博物館研究グループの発掘遺物の年代鑑定で、箸墓などの纏向遺跡が従来説を100年ほどもさかのぼる卑弥呼の時代である3世紀半ばとされたこと、また ②三角縁神獣鏡の同氾鏡分析により、奈良県が三角縁神獣鏡の頒布の中心地とされたこと、が大きな要因です。
しかし歴史民俗博物館研究グループの分析は恣意的で、箸墓出土のヒノキの年代により3世紀半ばとしたわけですが、同じ箸墓出土の桃の核の分析では4世紀半ばということになるそうです。(186-187p) 新しい遺物がその遺跡の年代判定の基準になるのは当然です。しかも炭素14年代法には炭素14濃度変動やサンプル選択の問題があり、年輪年代法には比較対照する較正曲線が大きく波打っていて該当年代にかなり幅があり、年代を断定することは困難なはず。遺跡の建設年代を100年遡らせなければ、三角縁神獣鏡の分析も意味をなさなくなります。(なぜ卑弥呼遣使の年号がある三角縁神獣鏡が奈良県から全国に分配されたように見えるのか、の疑問は残りますが)
ものごとは大要を把握することが肝心です。そもそも魏志倭人伝には、女王国は帯方郡から1万2千余里とあり、奈良県は倭人伝の距離単位で測ってさらに1万里以上も遠く、2万数千里のかなたです。白髪3千丈の中国で、距離をわざわざ半分以下に表記するでしょうか。また倭国は周旋5千余里とあります。福岡周辺から奈良県まで1万里以上もあるのに、周旋5千余里は全然ありえません。九州島ならちょうどそれくらいです。奈良説派はこうした数字は無視して、卑弥呼の塚が径百歩というのにはこだわり、奈良にはあるが九州にはないという話になります。
すでに漢の時代から九州に政権が存在し、朝貢して漢委奴国王の金印をもらいました。卑弥呼の時代には、東方にまた国あり、みな倭種なり、とあって、邪馬台国政権が倭国全土を支配していなかったことも確かです。邪馬台国が奈良県にあり、九州諸国を統合・征服したなら、そのことが全く説話として伝わっていないのは不思議です。逆に、九州から奈良へ攻め込んだ神武東征伝説が官製史書である日本書紀と古事記に載っており、神武は征服者だと明記しています。神武より先に天下っていて奈良で神武に降伏したニギハヤヒは物部氏の祖で、物部氏は九州系といわれています。
奈良県説の学者の中には、魏志倭人伝は参考にならない、無視してかまわない、という人もいるほどです。それでいて邪馬台国を探して、奈良だという。疑問符いっぱいの歴史民俗博物館研究グループの発表を鵜呑みにすることは、安本氏の指摘のように旧石器偽造事件のようになりかねないのではと危惧します。
(わが家で 2016年6月4日)
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