濃い目の朱赤で、よく整った半高芯剣弁咲きのバラ、ブランデンブルグ
Brandenburg (Hybrid Tea)。(ドイツ語読みでブランデンブルク)
遅咲きで、時にピンクの縦絞りが入ることがあるようです。中度の香りが
あります。
ブランデンブルクはアルブレヒト1世を初代とするブランデンブルク辺境伯
の所領で1157年成立。同辺境伯は1356年に選帝侯になった名門です。
同地は1415年にホーエンツォレルン家の支配下に入り、1618年にはドイツ
騎士団国を前身とするプロイセン公国とともに、ホーエンツォレルン家の
同君連合下でブランデンブルク=プロイセンを構成しました。
1701年、フリードリヒ3世によりプロイセン王国が成立して、ブランデンブルク
辺境伯領はプロイセン王国の一部のような形となり、ブランデンブルク辺境
伯の爵号はプロイセン王ホーエンツォレルン家の王子に、単なる称号として
授けられるようになりました。
神聖ローマ帝国が公式に解体された 1806年には正式にプロイセン王国領
ブランデンブルク州となりました。
バッハ Johann Sebastian Bach は 6曲からなる協奏曲集 'Concerts avec
plusieurs instruments' (種々の楽器のための協奏曲) を、1721年にブラン
デンブルク辺境伯クリスチャン・ルートヴィヒ Margrave Christian Ludwig
of Brandenburg (1677 –1734) に献呈しました。伯はプロシア王フリードリヒ・
ヴィルヘルムⅠ世の王子で、軍将校でした。
この協奏曲集が 150年後に The Brandenburg Concertos 『ブランデンブ
ルグ協奏曲』と呼ばれるようになったわけです。
なお Wikipedia 日本語版などには、『ブランデンブルク協奏曲』 の献呈
相手として 「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルート
ヴィヒ」 とあるのですが、「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯」 とは
ホーエンツォレルン家の傍系で、辺境伯領の北部にある 「ブランデンブルク
=シュヴェート」 地方を領地とし、3代で断絶した爵号です。
その3代の中にクリスティアン・ルートヴィヒという名前の人物はいません。
1721年の当主は第2代フリードリヒ・ヴィルヘルム Friedrich Wilhelm (1700-
1771) で、1711年から1731年までプロイセン王の後見を受けていました。
音楽サイトなどでも 「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯」 と記載して
いることがありまますが、おそらく Wikipedia 英語版の見出しに、
'Margrave Christian Ludwig of Brandenburg-Schwedt'
とあるのをそのまま訳してしまったのではないかと思われます。しかし本文
には -Schwedt の部分はありませんし、それが間違いなのは上記の通り
です。
ブランデンブルク州は第二次世界大戦後の1945年に、オーデル・ナイセ線
により東のポーランド領と西のドイツ領に分割され、さらにドイツ民主共和
国 (東ドイツ) は1952年に州制度を廃止し、ドイツ側に残った部分をコト
ブス県、フランクフルト県、ポツダム県に3分割しました。コルデス氏がこの
バラを作出した当時はブランデンブルクの名が消滅していた時期になる
わけです。
1990年、ドイツ再統一によりブランデンブルク州(Bundesland Brandenburg)
が復活したそうです。
作出者 ドイツ ライマー・コルデス Reimer Kordes 1965年。
(神奈川県川崎市 生田緑地バラ苑 2016年5月22日、
同 2013年5月23日、2012年11月3日、2011年10月29日)
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メインは 生田緑地バラ苑 2016年5月22日。
これは 同 2012年11月3日。
下2枚は 同 2013年5月23日。
淡いピンクの縦絞りが入っています。
これは 同 2011年10月29日。これにも微かに縦絞りが入っているようです。
Brandenburg (Hybrid Tea)。(ドイツ語読みでブランデンブルク)
遅咲きで、時にピンクの縦絞りが入ることがあるようです。中度の香りが
あります。
ブランデンブルクはアルブレヒト1世を初代とするブランデンブルク辺境伯
の所領で1157年成立。同辺境伯は1356年に選帝侯になった名門です。
同地は1415年にホーエンツォレルン家の支配下に入り、1618年にはドイツ
騎士団国を前身とするプロイセン公国とともに、ホーエンツォレルン家の
同君連合下でブランデンブルク=プロイセンを構成しました。
1701年、フリードリヒ3世によりプロイセン王国が成立して、ブランデンブルク
辺境伯領はプロイセン王国の一部のような形となり、ブランデンブルク辺境
伯の爵号はプロイセン王ホーエンツォレルン家の王子に、単なる称号として
授けられるようになりました。
神聖ローマ帝国が公式に解体された 1806年には正式にプロイセン王国領
ブランデンブルク州となりました。
バッハ Johann Sebastian Bach は 6曲からなる協奏曲集 'Concerts avec
plusieurs instruments' (種々の楽器のための協奏曲) を、1721年にブラン
デンブルク辺境伯クリスチャン・ルートヴィヒ Margrave Christian Ludwig
of Brandenburg (1677 –1734) に献呈しました。伯はプロシア王フリードリヒ・
ヴィルヘルムⅠ世の王子で、軍将校でした。
この協奏曲集が 150年後に The Brandenburg Concertos 『ブランデンブ
ルグ協奏曲』と呼ばれるようになったわけです。
なお Wikipedia 日本語版などには、『ブランデンブルク協奏曲』 の献呈
相手として 「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルート
ヴィヒ」 とあるのですが、「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯」 とは
ホーエンツォレルン家の傍系で、辺境伯領の北部にある 「ブランデンブルク
=シュヴェート」 地方を領地とし、3代で断絶した爵号です。
その3代の中にクリスティアン・ルートヴィヒという名前の人物はいません。
1721年の当主は第2代フリードリヒ・ヴィルヘルム Friedrich Wilhelm (1700-
1771) で、1711年から1731年までプロイセン王の後見を受けていました。
音楽サイトなどでも 「ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯」 と記載して
いることがありまますが、おそらく Wikipedia 英語版の見出しに、
'Margrave Christian Ludwig of Brandenburg-Schwedt'
とあるのをそのまま訳してしまったのではないかと思われます。しかし本文
には -Schwedt の部分はありませんし、それが間違いなのは上記の通り
です。
ブランデンブルク州は第二次世界大戦後の1945年に、オーデル・ナイセ線
により東のポーランド領と西のドイツ領に分割され、さらにドイツ民主共和
国 (東ドイツ) は1952年に州制度を廃止し、ドイツ側に残った部分をコト
ブス県、フランクフルト県、ポツダム県に3分割しました。コルデス氏がこの
バラを作出した当時はブランデンブルクの名が消滅していた時期になる
わけです。
1990年、ドイツ再統一によりブランデンブルク州(Bundesland Brandenburg)
が復活したそうです。
作出者 ドイツ ライマー・コルデス Reimer Kordes 1965年。
(神奈川県川崎市 生田緑地バラ苑 2016年5月22日、
同 2013年5月23日、2012年11月3日、2011年10月29日)
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メインは 生田緑地バラ苑 2016年5月22日。
これは 同 2012年11月3日。
下2枚は 同 2013年5月23日。
淡いピンクの縦絞りが入っています。
これは 同 2011年10月29日。これにも微かに縦絞りが入っているようです。