雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

二輪車新聞社便り

2018-05-25 06:24:35 | カワサキワールド

 ★ 業界紙二輪車新聞にこんなネット版が存在する。  http://www.nirin.co.jp/column/0059/

 いろんな記者さんが、交代でいろんなコラムを書かれている。

 その中の一人に衛藤誠さんがおられて、カワサキに関する記事などを手掛けておられる。

 衛藤さんとは私はもう60年近いお付き合いで、衛藤さんはカワサキが二輪事業の一貫生産を1960年(昭和35年)にスタートさせた頃から、すでにカワサキ担当だったし今も尚『二輪車新聞社大阪支社』の顧問でカワサキを担当される現役記者さんなのである。

 1960にスタートしたカワサキの二輪事業の当初から2018年の現在に至るまで、『継続して解っている人』はカワサキの人ではなくて、衛藤誠さんかも知れないのである。

 私は若い頃、広報を担当していたこともあって、今でもお付き合いは続いているし、実は昨日衛藤さんから『カワサキ創成期を支えた人たち』を何回かの連載で書くのでお読みくださいという電話を頂いたのである。

 

 こんな記事だった。

 

 

二輪車新聞社便り

 

2018-05-21

カワサキ創成期を支えた人たち 今なお、強い絆で会合続ける①

現在の「カワサキ」が、本格的な一貫生産を開始したのは、1960年(昭和35年)からだと思う。当時は川崎航空機工業の発動機事業部。これより2年前の58年(同33年)に「単車生産準備室(当時、カワサキでは二輪車を“単車”と呼んでいた)」が、設置された。弊紙創刊の1年前である。

それ以前のカワサキは、発動機事業部で生産した二輪車用エンジンを、東京の「明発工業」に供給して“メイハツ”というオートバイを生産していた。“メイハツ”(明発)は、明石で造られたエンジンから由来する。

このオートバイをベースにして、発動機事業部の明石工場で一貫生産しようという計画。

そこでまず「単車生産準備室」を設置し、組み付け部品(OEM)や資材の調達対策、人材の確保、二輪車生産ラインの建設など準備を進め、約2年後の1960年、遂に単車一貫生産のスタートをみたのである。

これを支えた人材は、生産技術関係は主にジェットエンジン事業部から、その他発動機事業の営業部や勤労部からなど、言うならば“寄せ集め”人事であった。前回当コラムに書いた「販売網づくり」をはじめ、営業部門はメイハツの販売営業をベースに、新しく「カワサキ自動車販売(カワ販/発動機事業部の営業部と表裏一体)を設立した(現KMJの前身/明発工業は後に吸収合併した)。

一貫生産を開始したが、なかなか軌道に乗らなかった。特に致命的だったのは、“B7”(125cc)のフレーム欠陥によるクレームで、連日返品が続き、当時あった物品税の戻入管理で営業担当者はてんてこ舞いしていた(B7のフレームは、スタート時にフレーム開発の人材が少なく。外注していたという)。こうした状況から川崎航空機の本社では、“単車事業の存続”を検討し始めた。

そうして1962年には外部の経営診断機関(日本能率協会だったと思う)に、「今後、単車事業を継続すべきか、中止するか」の診断を仰いでいた。

ところが、63年に奇跡が起こった。それは、兵庫県下・青野ヶ原でMFJ第1回全国モトクロス大会が開かれ、欠陥車B7の次に開発した“B8”がなんと1〜6位を独占したのだ。

この快挙に発動機事業部の志気が一気に高揚し、これを見て経営診断をしていた日本能率協会は、「単車事業部を続けるべし」の答えを出し、単車事業の再建が図られることになったという。余談だが、モトクロス当日は大雨で、他銘柄の有力マシンの多くがリタイヤし、雨に強かったB8が勝ち残ったという。(つづく)

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


カワサキの再建を決定付けたMFJ第1回全国モトクロス大会で1〜6位を独占した「B8」とライダーたち

 

★ 二輪事業の明石工場での一貫生産は記事にあるように

 ● 生産準備に必要な資材部門の単車生産準備室が、私が入社した翌年の昭和33年(1958)からスタートし、

 ● 明石工場で125B7の生産がスタートしたのが昭和35年で、

 ● 発動機事業部の営業部門に新たに単車営業部が出来た昭和36年の12月に、私は単車営業に異動したのである。

そこで二輪車新聞の衛藤誠記者とも初めてお会いしたのである。

 

   

 

  実は昨日は、衛藤さんの記事にある『青野ヶ原のモトクロス』のことをよく知ってる3人がある会合で会食したのだが、真ん中の山本隆さんは、この大会では未だカワサキではなくて、プライベートのヤマハでレースに出場しているし、左の平井稔男さんはメイハツのを経て既に私の前から、当時のカワサキ自販にいたのである。

この『青野ヶ原のモトクロス』は、私が営業部門に異動した1年後の出来事で、その影の仕掛け人は兵庫メグロの西海義治社長なのだが、平井さんさんは定年後兵庫メグロの社長などもされたのである。

 そんなこともあって、昨夜も帰りの車の中で『青野ヶ原の話』になり、『西海さんの指示で雨対策を完全にした』のが西海さんの自慢だったという話になったのである。

 カワサキのモトクロスレース出場の初戦でなぜ『1位から6位まで独占』出来たのか? それは他メーカーのマシンは水に浸かってみんなエンジンが止まってしまって、独りカワサキだけが雨の中を全車完走して、こんな結果になったのである。

 このレースに出場していた山本隆さんも、マシンが止まってしまったようである。

 

 当時は『二輪事業の継続』が検討されていた時期で、この快挙で「単車事業を続けるべし」の決定となったのである。

 

★そういう意味ではカワサキにとって『恵みの雨』だったのだが、この何年か後、鈴鹿ロードレースにカワサキとして初めて出場したライダーが山本隆さんなのである。

 

     

 

青野ヶ原から2年後昭和40年5月3日のことだが、カワサキは初出場ながら、ホンダ・ホンダ・カワサキと山本隆は3位入賞を果たしたのである。

 当日雨になり全体のタイムが落ちて、山本隆くんは3位BS滋野のすぐ後ろをスリップストリームで追跡しゴール直前に交わしての3位入賞だったというので、ここでも『恵みの雨』だったのである。

 その時のことを書いたブログである。  https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63

 

 衛藤さんの連載、次回はどんなことになるのだろう。

 

  

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