「エルンスト、デグナー」ドイツが産んだ名ライダーである。
スズキの契約ライダーとして、またスズカの「デグナーカーブ」でも有名である。
1966年10月、富士スピードウエイで開催された日本GPにデグナーを登場させるべく契約をしたのだが、練習中に転倒怪我で、カワサキのデグナーは実現しなかった。
外人ライダーとの契約は、デグナーがはじめてであった。
山田さん(後、川重副社長)が直接交渉し私は契約書などお手伝いをしたのだが、さっぱり具体的なことが解らず、MFJの運営委員会で面識のあったホンダの前川さんに,鈴鹿までお伺いして教えて頂いた。
9月10日のことである。
当時、日本の契約書の末尾によく書かれていた「疑義のある場合は、甲乙円満に話し合い」は駄目ですよ。若し書くなら「疑義のある場合は、甲の判断による」など具体的に丁寧に教えて頂いた。
23日には英語の契約書(案)も出来て、26日に来日したデグナーを神戸のホテルまで迎えに行った。
Good Morningと一言いっただけ、明石まで一言も喋らずに(喋れずに)戻ってきた。
契約交渉は山田さんがされた。英語が喋れたのである。大したものだと思った。
29日には、FISCOでテスト走行に入ったのだが。練習中にチェン切れで転倒し、頭を打ったので御殿場中央病院で診てもらった。
大したことはないようなので,10月1日に明石市民病院まで移動し入院させた。
ところが、3日になって容態が急変した。当時はまだ脳外科の専門医は少なく、診断ももう一つはっきりせず不安であった。
専門医の神戸医大の光野教授に診て頂くために、ツテを総動員して4日に神戸医大に移したのである。
インターンを引き連れての、光野先生の診断は非常にはっきりしていて「大丈夫です」といって頂いて、本当にほっとしたのをよく覚えている。
具合が悪くなってからの、デグナーは、まず会話がドイツ語になった。カルテをドイツ語で書くお医者さんもドイツ語が理解できなかった。
9月13日にドイツ留学から戻られたばかりの、大槻さんがGPチームの監督だったので助かった。
「日本の医学は何十年遅れている」と文句ばかり言っていたデグナーも、プロフェッサーの診断となると何一つ文句を言わなくなった。
欧米でのプロフェッサーの権威がよく解った。
10月21日にデグナーは無事退院するのだが、その間本番のレースも開催されて大変な1ヶ月半だった。
そんなことで、残念ながらカワサキでのデグナーの走りは見ることなく終わってしまった。
更に、契約金を円で支払ったのだが、当時は持ち出すことが出来ず、神戸の日銀支店に顛末書を書いて、やっと解決するというおまけまで付いた。
そんな、懐かしい思い出があるのだが、
デグナーを検索していて、スズキの中野さんの書かれた、「デグナー追憶」に出会った。
ホンモノの素晴らしいデグナーに会うことが出来ると思います。是非ご一読を。
スズキの契約ライダーとして、またスズカの「デグナーカーブ」でも有名である。
1966年10月、富士スピードウエイで開催された日本GPにデグナーを登場させるべく契約をしたのだが、練習中に転倒怪我で、カワサキのデグナーは実現しなかった。
外人ライダーとの契約は、デグナーがはじめてであった。
山田さん(後、川重副社長)が直接交渉し私は契約書などお手伝いをしたのだが、さっぱり具体的なことが解らず、MFJの運営委員会で面識のあったホンダの前川さんに,鈴鹿までお伺いして教えて頂いた。
9月10日のことである。
当時、日本の契約書の末尾によく書かれていた「疑義のある場合は、甲乙円満に話し合い」は駄目ですよ。若し書くなら「疑義のある場合は、甲の判断による」など具体的に丁寧に教えて頂いた。
23日には英語の契約書(案)も出来て、26日に来日したデグナーを神戸のホテルまで迎えに行った。
Good Morningと一言いっただけ、明石まで一言も喋らずに(喋れずに)戻ってきた。
契約交渉は山田さんがされた。英語が喋れたのである。大したものだと思った。
29日には、FISCOでテスト走行に入ったのだが。練習中にチェン切れで転倒し、頭を打ったので御殿場中央病院で診てもらった。
大したことはないようなので,10月1日に明石市民病院まで移動し入院させた。
ところが、3日になって容態が急変した。当時はまだ脳外科の専門医は少なく、診断ももう一つはっきりせず不安であった。
専門医の神戸医大の光野教授に診て頂くために、ツテを総動員して4日に神戸医大に移したのである。
インターンを引き連れての、光野先生の診断は非常にはっきりしていて「大丈夫です」といって頂いて、本当にほっとしたのをよく覚えている。
具合が悪くなってからの、デグナーは、まず会話がドイツ語になった。カルテをドイツ語で書くお医者さんもドイツ語が理解できなかった。
9月13日にドイツ留学から戻られたばかりの、大槻さんがGPチームの監督だったので助かった。
「日本の医学は何十年遅れている」と文句ばかり言っていたデグナーも、プロフェッサーの診断となると何一つ文句を言わなくなった。
欧米でのプロフェッサーの権威がよく解った。
10月21日にデグナーは無事退院するのだが、その間本番のレースも開催されて大変な1ヶ月半だった。
そんなことで、残念ながらカワサキでのデグナーの走りは見ることなく終わってしまった。
更に、契約金を円で支払ったのだが、当時は持ち出すことが出来ず、神戸の日銀支店に顛末書を書いて、やっと解決するというおまけまで付いた。
そんな、懐かしい思い出があるのだが、
デグナーを検索していて、スズキの中野さんの書かれた、「デグナー追憶」に出会った。
ホンモノの素晴らしいデグナーに会うことが出来ると思います。是非ご一読を。
そこから直ぐ、三橋実君の弟さんの運転で、赤羽のご自宅に報告に行きました。
ご遺体が羽田に着いたのは9月1日、夕方の6時15分のことでした。
その間、全てのことが、はじめての経験で、その日の日記に「遺体が着いてほっとした」との記述があります。
「本当に着くのだろうか」と心配していました。
大槻さんが英国側で手続きをやってくれたのですが、いろいろお世話になったようで有難う御座いました。
昨年、片山義美君に会ったとき藤井君の話になり転倒後、話をしたとか言っていたと思います。
デグナーの事故もこの後直ぐのことでしたので、本当に心配でした。
藤井君のことは契約は担当しましたが、GP関係は技術部担当でしたので、どんな経緯でカワサキに来たのか詳しいことは解りません。
はじめて藤井君に会ったのは、65年秋のモータショーの会場で、久保和夫君が私に紹介してくれました。
単に城北ライダースのメンバーとばかり思っておりました。
その少し後、MFJの運営委員会の席上で、岡野さんから「うちの藤井から辞表が出た。会社の従業員ライダーだから、引き抜きは困る。」という発言がありましたが、「うちは関係ない」「多分BSだろう」と思っていたのですが、
ひょっとするとそのころ既に話があったのかも知れません。
66年1月5日に藤井君が明石に来て終日契約の話をしています。
非常に真面目な人柄だと言う印象を強く受けました。
カワサキとの契約は、「ライダーとしての契約はマン島から帰ってからにして欲しい」という、ご本人の強い希望でマシンの貸与契約とGPマシンの技術改良に関する内容でした。
その後、量産車のキャブセッテングで困っていた時、藤井君が診て即座になおったことがあり、契約外のことでしたが、事業部長から金一封が出たりしました。
技術的な経験豊富という印象を受けました。
私にとって、藤井君は辛い思い出です。
中野さんとの接点が出来て、藤井君のことを書く気持ちになりました。
心よりご冥福をお祈りします。
私のホ-ムペ-ジに、「藤井敏雄くん」に関して、下記ページがあります(http://www.iom1960.com/kennsannkai/fujii-tosio-mail.html )。私のホ-ムペ-ジを見てご兄弟、甥御さんからも、ご連絡をいただきました。ご覧になってください。
藤井敏雄君のことは、私のレース担当時の最も心痛む出来事でした。
大槻さんは、私のデグナーの記事にも出てくる、あの年のFISCOのGPの監督です。マン島当時はまだドイツに留学中でした。
藤井君の事故死をお宅にお伝えしに、伺ったのも羽田でご遺体を迎えたのも私です。
この年、元スズキのライダー藤井敏雄くんはカワサキ車でWGPに個人出場していたが、このTTレ-ス公式練習で塀に激突死亡してしまいました。カワサキからは大槻さん?という方がマン島に来ていらっしゃいました。チームの渉外担当者に遺体返送手続きのお手伝いをするよう話したことを思い出します。
10月のFISCOの日本GPには、デグナーがカワサキで出場するということは聞いていたが、出場しなかった経緯などは知らないまま、今日を迎えました。貴ブログでこの経緯が明らかになり、感謝しております。
次に、勝手なお願いで恐縮ですが・・・貴ブログの記事を私のホ-ムペ-ジに掲載することをお許し頂けないでしょうか?。勿論、記事の出所は明記致します。お願いまで。
読ませて頂きます。
2月4日にMFJ関西支部ふれあいミーテングがあるそうなので、出席したいと思っています。
金谷など旧いライダーたちも出るようなので旧交を温めたいと思っています。
小生はスズキの技術屋として浅間から1960年代のWGPに関与させていただきました。
「「日本モ-タ-サイクルレ-スの夜明け」http://www.iom1960.com/を開設していますので一度ご覧になってください。