小野田滋郎さん。
カワサキのレースの創生期にライダー関係で三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人だと、私は思っている。
あのフィリッピンから帰国した小野田寛郎中尉の弟さんである。
ブログを書く資料として日記をめくっていたら、1972年10月22日の日記にこんなことを書いている。
(私が39歳、もうレースを離れ、東北での始めての営業経験をして後、大阪にいて、近畿、中部、と東京都という大市場を担当していた。
張り切ってはいたが、背伸びもしていた時代のことである。)
原文のまま、ご紹介する。
「フィリッピンのルパング島で、生き残りの日本兵が島民と銃撃戦、一人が死亡した。一人はジャングルに逃亡。その生き延びた一人は小野田寛郎、和歌山出身、その母の書いた文章をみて、ひょっとしたら小野田滋郎さんのーーと思った。テレビを見ていると小野田さんが出てきた。」
とここまで書いて、あと補遺とある。
小野田さんは、もうその時はカワサキには居なかった。
補遺も少し長いが、原文のままご紹介する。
「小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。
陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。
小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。
陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。
箸袋 寛郎と今も 還らぬ子
小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。
新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
自分の39年の人生を振り返ってみて、野球部の先輩の山本治さん、小野田滋郎さん、岩手の久保社長、宮川部長などは、現在の自分の生き方を支えている。
小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。(10月24日夜)」
本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
今も、お元気である。
毎年頂く年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしている。
いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力である。
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