★昭和30年(1955)年は4回生で
成績は兎も角単位は取れていたので、卒論さえ出せば卒業は出来たのだが、卒業を1年延ばすことにしたのである。
この2年間の日記を改めて読み返してみたが、いろんなことがあった2年間なのである。
★ 4回生の昭和30年5月に何かと世話になっていた伯父が亡くなった。
その葬儀に来られた川崎航空機の社長の砂野仁さんが、就職難の時代だったのだが「よかったらうちにいらっしゃい」とは言って頂いていた。
春先は肺浸潤の経過もよく、野球部のキャプテンもやってたので、
プレーもやっていたのだが、それがちょっと無理だったのか、
9月には空洞が出来てると宣告されたりしたのである。
秋には就職試験も始まったのだが、
いろいろ考えた末に1年卒業を延ばすことにしたのである。
この1年延ばしたことがその後の私の人生を決めたと言っていいのかも知れない。
10月4日に砂野仁さんを訪ねて卒業を1年延ばすことを伝えている。
砂野仁さんは、かって戦時中に伯父が片手間にやっていた明石の錦江ホテルが軍の指示で川崎航空機に接収された当時の総務部長で、
伯父のほうが年上なのだが、その後至って親交があったのである。
「片手間で」と書いたが、伯父の本職は、当時の日本は一番大きかった
「南鮮合同電気」のオーナ副社長だったのである。
私が神戸一中に入学したのも、実は砂野仁さんの薦めだったので、
そんな子供のころから、伯父宅によく来られてた砂野さんを「おっちゃん・おっちゃん」と呼ばせて頂いたりしたのである
★ そんなことで大学は1年卒業を延ばしたのだが、
翌年4月には野球部長から正式に野球部の監督を依頼されて、引き受けている。
単位は取れていたので、5回生当時は野球部の監督をして過ごしたという大学生活だったのである。
この年の4月に野球部に小山修身君と言う優秀なピッチャーが入って、6月には明石高の先輩だったプロの井筒さんに小山のコーチをお願いし、手首の使い方の指導を受けたりしたのである。
その結果がよかったのか、秋のリーグ戦には、
小山修身投手は、対市大2-0、対工大1-0,対工大0-0、対経大4-0、対経大4-0と1点も許さず53イニング連続無失点と言う、当時の学生野球記録を成し遂げたのでらる。
監督をしていた私は30イニングを過ぎるころからそれを意識していて、本人も野球部の人達も気が付いていなかったのだと思うが、
私はそれを意識しての采配をしていたのである。
それが学生野球記録であることは私も実は知らなかったのだが、
ホントに大記録でその結果、秋のリーグは近大に次いでの2位に終わったのである。
そんなことで私自身は中学2年生から野球を始めたのだが、それ以降は、学生生活=野球部生活のような学生時代を過ごしたのである。
前述したように中学校は旧制神戸一中に入学したのだが、ここは秀才ぞろいであったが、2年生まではホントによく勉強をして、学年で「10番以内」にいたことがその後の私の自信に繋がっている。
たまたまだが、3年生のときには男女共学となり、高校入学時は学区制で明石高に転入したこともあって、英語、数学などは勉強をする必要が無かったのである。
神戸一中の2年生の授業のレベルは、それくらい高かったと言えるのである。
そなこともあったし、何事もやりだすと熱中する性格で、その後の学生生活は野球にハマっていたと言ってもいい。
★ 最後は野球部監督と言う1年を過ごすのだが、入社試験を受ける昭和31年は不景気の就職難から一転して、
1956年(昭和31年)は神武天皇が即位して以来、例を見ない好景気という意味で「神武景気」と名付けられのである。
そんなこともあって川崎航空機も大量の採用人員となり、学校の成績は悪かったが、問題なく私も入社できたのである。
因みに、会社の同期会の名称は「神武会」なのである。
若し、4回生で卒業していたら、川崎航空機に入社できたかどうかは解らない。この年までは非常に厳しい就職難の時代だったのである。
何となく1年卒業を延ばしたことが、私の人生で多分よかったのだと思っている。
人の人生は実力もあるが、運もある。
そう言う意味では私はその後も「運のいい人生」を送ることが出来たと思っている。