雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 雑感

2020-01-16 07:42:30 | カワサキ単車の昔話
★ごく最近、Facebook にこんなOgasaさんの記事が出た。
 
カワサキが1965年に、ロードレースで初めて頂いたトロフィーなのである。

  
   

 そのコメントの中で Ogasaさんが
このレースで入賞していなかったら、カワサキのロードレースチームが出来るのは、もっと遅れたのですか?』 というご質問だったので、 
纏めて書きますね。』とお約束したものだから、
 
当時のことを含めて、私なりに纏めてみたい。





★この当時、カワサキはレースに関しては結構一生懸命にやってはいたのだが、
それは『モトクロスの分野』に限ってのことだったのである。

ロード・レース』の分野にも、
いつかは出ていくことになったのだとは思うが、
山本隆さんが『鈴鹿のレースに出たい』と若し言わなければ、
そんなレースがあること自体も知らなかったので、
カワサキのロードレース分野への進出はもう少し後になったのかも知れない。

少なくとも、この翌月の6月に行われた『アマチュア6時間耐久レース』には出場していなかったような気がする。
なぜ山本隆さんが『ロード・レース』と言いだしたのかは、
この年の1月に当時のBSチームから、山本・歳森の引き抜き事件があって、
二人ともBSとの契約条件などを聞いているのだが、
その時BSからは『ロード・レースへの出場』もその『契約条件』に入っていたものだから、それを聞いて『ロード・レース出場』に関心があったのだと思うのである。

カワサキにとってはこの『移籍事件』は大きかったのだが、西海義治さんや片山義さんの判断もあって、二人とも『カワサキ残留』が決まったのである。
その件で、私はライダーと初めて話をしたのが『片山義美』さんだったのだが、
片山義美さんのカワサキのレース対応に対する指摘は厳しかったが、
仰ること』は納得できて、
この1件から『私自身がレースに関与』すると片山義美さんに約束したのである。
この件がなかったら、私自身のレース関与も、もっと後になったのかも知れない。

★当時のカワサキはレースは勿論、
二輪の世界にも『素人』ですべて『手探り』状態だったのだが、
それに比べてBSは旧トーハツのレース関係者がおやりだったので、
カワサキに比べたら『玄人』であったことは間違いないのである。

そんな状態の中での、山本隆さんの『ロード・レース』出場希望で、
新車を自分で買ってそれをチューニングだけレース職場に頼んで、
個人で出場する』積りだったのだが、
当時、生産部門にいてレース職場も担当していた田崎雅元さんが都合してくれて、
出場費用は『鈴鹿のモトクロス』に出場することにして、ことを進めたのである。


★このレースのことを『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と題して、
このブログをスタートした2006年の11月にこんなブログをアップしている。


その概略を転記してみる。

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。
当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。
メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある北陸の塩本にも出場を要請したのである。案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。
駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆はは、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,鈴木で、結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。
雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、チームマネージャーの川合さんから、5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助けとなった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参加を認めることになったのである。

約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤、飯原は決まったのだが、関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 
このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。
このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれた内田さん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。
こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
★このように書いているが、この時のマシンを作ってくれた松尾勇さんも、歳森も金谷も、梅津も岡部も逝ってしまった。
不思議なことに、このアマチュア6時間耐久レースのきっかけになった山本隆さん、
監督の大槻幸雄さん、田崎雅元さんと私はまだ健在なのである。

大槻幸雄さんは、『Z1開発の功績』で、昨年日本自動車工業会の殿堂入りを果たされた。
来る4月18・19日に、大槻さんの出身地の京都・綾部に Kawasaki Z1 Fan Club の人たちが集まって、そのお祝いをしようとの催しが進んでいるが、
その時 集まる山本隆・大槻幸雄・私に加えて、今田崎雅元さんにもお誘いを掛けているので、ひょっとしたら『カワサキのロードレース・スタート』のメンバー4人が顔を揃えることになるかも知れないのである。

 
   


★そんな想いでいっぱいの由緒あるトロフィーだが、
2月1日に神戸で開催される
片山義美さんを偲ぶ会』には、このトロフィーも会場に飾られることになっている。

片山義美さんご自身は、カワサキとは直接契約などはなかったのだが、
片山義美さんの神戸木の実クラブ』とはその傘下のライダーたち
歳森・山本・金谷・村上・星野・清原・和田などいろいろと関係があって、お世話になったのである。

いろいろとあったカワサキのレースの世界である。
このトロフィーが、その歴史の本格的なスタートになったと言えるのかも知れない。


コメント
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