京都駅へは12時に10分ほど前についた。12時に合う約束の場所がわからず、あちこちウロウロ、それでももう30年以上も会っていないドクターTでは変わっているだろう。
このドクターT は私が英國へ来る1年前、京都御池通りに有った日赤救急病院で一緒だった。ほとんど年齢も同じでまるで仲間という感じだった。
彼とは今でも忘れられない思い出がある。
ちょうど英國へ来た1972年の元旦、私は除夜の鐘のなり始めた12時から朝8時までの深夜勤。ドクターT は近くの医院でアルバイトをしていたらしい。
そこへ生まれて数日の赤ちゃんがミルクを飲んでも全部吐いて脱水状態。小さな赤ちゃんは脱水状態で皮膚はしわしわ、すぐ呼吸が止まるので、全身がどす黒くなる。
すると背中に手を入れてそーっと持ち上げると呼吸が戻る。このドクターTは急いで私が働いていた真夜中に赤ちゃんと駆け込んできた。内科の病院では何もできなかったのだろう。
すぐ点滴をして保水しなければ此の小さな命はない。小さな赤ちゃんの腕の静脈は糸くらいの太さ、ドクターTは薄い表皮を切り開いて糸のような静脈へ一番細い針で点滴をしようとする。その間何度も呼吸が止まり背中を持ち上げて呼吸させ、糸のように細い血管に針がうまく刺さって生理的食塩水が少しづつ小さな体に入っていったときのあの安堵と喜び。今まででも一番忘れがたい新年の夜明けだった。
明け方近く呼吸も正常化しつつあり、赤ちゃんは看護室の隣の部屋で母親が付き添っていた。母親にはもし息が止まったらこうすると教え込んだがそれ以降は大事に至らず8時に勤務交代、赤ちゃんはすぐ第2日赤病院の本院へ送られ、手術になった。
赤ちゃんの胃の噴門(胃と十二指腸の間にある丸い輪の筋肉)がきつく収縮して吐き出すばかり。実際の手術は簡単であっという間に終わったらしいが、赤ちゃんのはじめをみていなかった手術医は私達が苦労して此の子を復活させたことを知らない。
ドクターTが此の救急病院へ連れてきていなかったら、確実に赤ちゃんは死んでいただろう。今何事もなく生きていたら53歳になっているはず。
京都駅で1時間以上も待ったけど、とうとう会えず新幹線で名古屋へ向かった。