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“法然と親鸞 ゆかりの名宝”東京国立博物館(2011.11.1)

2011-11-03 12:43:40 | Weblog
  第1章 人と思想
 末法の世が1052年に始まる。浄土宗の宗祖・法然(1133-1212)が「念仏をとなえれば救われる」と説く。法然の弟子となった親鸞(1173-1262)は浄土真宗の宗祖となる。2011年は法然没後800回忌、親鸞没後750回忌。
 1167年平清盛が太政大臣となる。1192年鎌倉幕府成立。源平争乱の時代である。

 法然が専修念仏を唱え浄土教を開いたのは1175年。彼は中国の善導の書によって回心を体験し比叡山を降り専修念仏の教えを広め始めた。

 重文「法然上人像」(鎌倉時代・13世紀、京都二尊院)は「足曳御影(アシビキノミエイ)」と呼ばれる。肖像画を断る法然を絵師が秘かに描く。法然は湯上りで足を投げ出してすわり、絵師にそれを描かれた。ひどいので法然が仏に祈ると絵の中の法然が足を曳いてきちんと座ったという。墨染めの衣、両手に数珠、法然頭でてっぺんは平。
          
 重文『選択本願念仏集』(センジャクホンガンネンブツシュウ)(鎌倉時代・12~13世紀、京都廬山寺)は法然が1198年に専修念仏を正当化した著作。題名が法然の自筆である。
          
 重文「二河白道図(ニガビャクドウズ)」(鎌倉時代・13世紀、京都光明寺)は日本最古の二河白道図である。左側に憎しみの炎の河。右側に貪欲の黒い河。その真ん中に狭い白い道。この困難な道を行く者のみが浄土に達することができる。キリスト教の“狭き門”である。「狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きい」と『マタイによる福音書』7章にある。
           
 親鸞は叡山で20年の修行を積むが限界を感じ山を降り、1201年、法然の弟子となる。法然より「綽空」(シャックウ)の名を与えられる。法然69歳、親鸞29歳。
 親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と述べる。煩悩に悩む凡夫は「悪人」。「悪人」であると目覚した者こそが阿弥陀仏の救済を知りえるの意。
 親鸞は人はすでに阿弥陀により救われており、それを感謝して念仏すると言う。

 重文「親鸞聖人影像」(室町時代・15世紀、奈良国立博物館)は「熊皮御影(クマカワノミエイ)」と呼ばれる。親鸞が熊皮の上に座る。高僧であることを示す。
     
 国宝「教行信証(キョウギョウシンショウ)、坂東本、親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、京都・東本願寺)全六巻からなる浄土真宗の根本聖典。坂東本は親鸞の自筆。60歳代の文章が8割。その後も死の直前の80歳代まで筆を入れ、高僧たちの諸著作を親鸞が解釈した。
                    
 国宝「西方指南抄(サイホウシナンショウ)、親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、三重・専修寺)は法然の法語・消息・行状記・日記・手紙などを親鸞が記した書物。6冊。84歳の親鸞が1256-7年に一気にまとめたもの。

 重文「歎異抄(タンニショウ)、蓮如筆」(室町時代・15世紀、京都・西本願寺)は親鸞の死後、弟子の唯円が親鸞の教えを無視した異説を嘆き文をしたためた。蓮如(1415-99)は本願寺中興の祖。
                    
  第2章 伝記絵にみる生涯
 国宝「法然上人行状絵図(四十八巻伝)巻第一」(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院)は法然9歳のとき、父が夜討をしかけられ殺害された事件を描く。父は美作の国(岡山)の武士。法然は、父の遺言によって仇討ちを断念し、出家して比叡山で学ぶ。

 重文「法然上人絵伝(増上寺本)、巻下」(鎌倉時代・13世紀、東京・増上寺)には、法然が絵師に、善導の絵を描かせている場面がある。夢に師善導が現れその下半身が金色に輝いていたという。

 重文「善信聖人絵(淋阿本)、詞書 覚如筆」(鎌倉時代・14世紀、京都・西本願寺)には33歳のとき親鸞が、法然から『選択本願念仏集』と御影を写すことを許される場面がある。法然への入門5年後のことであり、親鸞が優秀な弟子だったことを示す。この頃、親鸞は善信と改名する。(覚如は親鸞の曾孫、本願寺3世。)

 重文「本願寺聖人親鸞伝絵(弘願本)、詞書 善如筆」(南北朝時代・1346年、京都・東本願寺):興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって1207年、後鳥羽上皇が念仏停止を命じる。法然は讃岐へ、親鸞は佐渡へ流された。このときの場面がある。(善如は本願寺4世。覚如より継承。)


  第3章・1 法然をめぐる人々
 重文「七箇条制誡」(鎌倉時代・1204年、京都・二尊院):1204年、法然は比叡山延暦寺の専修(センジュ)念仏停止(チョウジ)の訴えに対して自戒の決意を示すべく「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添え送る。他宗派を非難攻撃したり道徳をおろそかにしたりしないことを誓ったもの。「綽空」(シャックウ)の名で親鸞の署名もある。

 重文「阿弥陀如来立像」(鎌倉時代・1212年、浄土宗):法然の一周忌に造立。像内には結縁(ケチエン)した4万6000人の名簿が納められていた。清盛・頼朝・天皇・貴族から庶民まで、平等に記名された。
                    

  第3章・2 親鸞をめぐる人々
 重文「善鸞義絶状 顕智筆」(鎌倉時代・1305年、三重・専修寺):親鸞が布教した東国では異説を説く者が現れ混乱。京から親鸞は、息子の善鸞を送る。しかし善鸞自身が混乱を深めた。親鸞は善鸞に義絶状を送り破門。 親鸞84歳、1256年のことだった。(顕智は親鸞の弟子。)

 
  第4章 信仰の広がり
 重文「阿弥陀三尊坐像」(鎌倉時代・中尊1299年、両脇侍13世紀、神奈川・淨光明寺)高さ約4m。迫力がある。阿弥陀は説法印であり、信者がすでに極楽にあることを示す。
      
 重文「八字名号 親鸞筆」(鎌倉時代・13世紀、三重・専修寺)親鸞は阿弥陀仏は像として描くことができない無限の光と考えて“南無不可思議光佛”などと名号で示し礼拝対象とした。現在親鸞聖人真筆のものは専修寺に一幅伝わるのみ。
          
 重文「聖徳太子立像」(鎌倉時代・14世紀、茨城・善重寺):聖徳太子の夢のお告げで親鸞は専修念仏の道へ進んだ。29歳の親鸞に聖徳太子の本地の救世観音が現れ「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」と告げた。
                        
 国宝「当麻曼荼羅縁起」(鎌倉時代・13世紀、神奈川・光明寺):奈良当麻寺の本尊の「当麻曼荼羅図」の由来を描いた絵巻。蓮糸で曼荼羅を織りあげた中将姫が阿弥陀如来のお迎えを受け極楽へ旅立つという物語。
      
 国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院):たちまちやってくるので「早来迎」である。右下隅の家で人が祈って阿弥陀菩薩の来迎を待っている。
      
 国宝「本願寺本三十六人家集」(平安時代・12世紀、京都・西本願寺):この日は「素性集」が展示。三十六人家集の最古のもの。豪華な装飾で有名。