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“空海と密教美術展” 東京国立博物館(2011.8.11)

2011-08-10 21:39:11 | Weblog
 空海(774-835)は真言密教の開祖である。
 
 「真言」とは、仏の真実の「ことば」。この「ことば」とは宇宙の隠された秘密の意味(ロゴス)のこと。空海によれば、それを知ることのできる教えが「密教」。世界や現象の表面の意味を真実だと誤解する教えが「顕教(けんぎょう)」。
 
 この隠された秘密の意味を知るには、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に入る修行法=三密加持(さんみつかじ)が必要である。
 仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる。仏が我に入り我が仏に入る=「入我我入(にゅうががにゅう)」。
 
 密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)が身体的イメージとしてとらえられたものである。だから法身仏(ほっしんぶつ)と呼ばれる。
 この法身仏つまり法界の真理が、わたしたちに直接真理の智慧(ちえ)を説く=「法身説法(ほっしんせっぽう)」。この智慧の説法を聞くのが三密加持(入我我入)の境地。
 
 真言宗は、このように仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)をめざす。

       

 空海は若き苦行時代に、栄達(立身出世)に背を向けて、仏法の世界にある悟りを求めて野山をさまよい歩く。
 24歳の時、『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、儒教、道教、仏教の中で仏教が最高の教えであることを主張。
 その後、『大日経(だいにちきょう)』と巡り会い、密教的宇宙観に引かれるが、その経典は梵字(ぼんじ)(サンスクリット語)で書かれていて意味の通じない点が多かったため、遣唐船で「唐」に渡り直に密教を学ぶ。31歳の時(804年)、「唐」に渡る。
 空海は入唐後、サンスクリット語(梵語)を学び、青竜寺(せいりゅうじ)に入り密教伝承の第七祖、恵果和尚より密教の正当な後継者として密教の全てを伝授された。その時、恵果和尚より「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を頂く。
 空海は入唐より2年後(806年)に帰国し真言密教をひろめる。
 816年、帝より高野山を賜る。
 823年、東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)と名づけ、真言宗の道場とする。 
 835年、高野山にて入定(にゅうじょう)。

 空海が延暦16年(797)に著述した『三教指帰(さんごうしいき)』の自筆草稿本が 『聾聲指帰 ( ろうこしいき )』(和歌山・金剛峯寺)。 24歳の空海の筆跡は元気で若さを感じさせる。
       
 「飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)」(唐代または平安時代(9世紀)、和歌山・金剛峯寺)の本物が展示されていて驚く。空海が唐から帰国するとき、密教を広めるのに相応しい地を求め中国の港から三鈷杵を投げたところ、日本にまで飛び高野山中の松の枝にかかった。その三鈷杵である。
       
 「五大力菩薩像」(鎌倉時代(1197)、和歌山・普賢院)はすさまじい。慈悲相のはずの菩薩が忿怒相で描かれている。
       
 「大日如来坐像」(平安時代(9世紀)、和歌山・金剛峯寺)。密教の中心の如来である。
             
 「降三世明王像(こうざんぜみょうおうぞう)」(平安時代(839)、京都・東寺)は東寺の立体曼荼羅の21体のうちの1体。4面、3目、8本の腕で恐ろしい忿怒相。降三世印が妖しい。
       
 密教の仏様たちは明王に代表されるように忿怒相が多い。また奇怪で多面、多本の腕、時に多本の脚の仏様が多数。密教世界はマジカルで神秘的である。