渋谷の夜は人通りも多くにぎやか。渋谷駅からBunkamuraまで歩く。
“だまし絵展”の最初は「Ⅰ.トロンプルイユの伝統」:トロンプルイユは「目だまし」の意味。
彫刻・浮き彫りのトロンプルイユの伝統がある。これが「板人形」である。絵で描かれているが一見すると彫刻や浮き彫りだと間違える。エラスムス・クリエヌス「慈悲の擬人像」(1650頃)が彫刻と思わせる絵である。
絵が絵の枠を超えているかのように描かれるとだまし絵(トロンプルイユ)となる。ペレ・ボレル・デル・カソ「非難を逃れて」(1874)は男の子が絵から飛び出す。
コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ「食器棚」(1663)は少し戸が開いた食器棚かと思うが実は食器棚であるかのように描かれている。彼は‘だまし絵の帝王’と呼ばれた。 ヨハン・ゲオルク・ヒンツ「珍品奇物の棚」(1666)も大航海時代の貴族の珍品奇物の棚がそこにあるかのように見える。
サミュエル・ファン・ホーフストラーテン「トロンプルイユー静物(状差し)」(1664)は壁に留められた皮ひもの状差しに実際に手紙や物があるかのように見せる。この画家はフェルメールの師である。
「Ⅱ.アメリカン・トロンプルイユ」:アメリカでは南北戦争後、19世紀後半にトロンプルイユがはやる。ウィリアム・マイケル・ハーネット「狩の後」(1883)は壁に掛かった銃やホルンが本物と見まごうほど精緻である。
同「海泡石のパイプ」(1886)では描かれた新聞の切れ端が微細ですごい。
「Ⅲ.イメージ詐術(トリック)の古典」
ドメニコ・ピオラ「ルーベンスの《十字架昇架》の場面のあるアナモルフォーズ」(17世紀)はわけのわからない絵を円柱の鏡に写すと何が描かれたかわかる。死んだイエスとその裏側に絡み合う男女がいる。不謹慎。
ジュゼッペ・アルチンボルド「ウェルトムヌス(ルドルフ2世)」(1590頃)はあらゆる果物でルドルフ2世の顔を描く。万物を統治する皇帝の隠喩である。この賛辞ゆえに画家は貴族の称号を得たという。
パウルス・ロイ「ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナント1世の三重肖像画」(1603)は左から見るとルドルフ2世の顔である。右からだとマクシミリアン2世(父)、フェルディナント1世(祖父)の並んだ顔。V字の溝に描いたものである。
エアハルト・シェーン「判じ絵ーフェルディナント1世」(1531-34頃)は横長の奇妙な模様。ところが横から見ると皇帝の顔が見える。
「Ⅳ.日本のだまし絵」
「描表装(カキビョウソウ)」:河鍋暁斎「幽霊図」(1883頃)は幽霊が掛け軸の絵から抜け出し恐ろしい。
鈴木守一「秋草図」(19世紀)は草花が掛け軸の絵からはみ出しにぎやか、ハッピーである。
「寄せ絵」:多くの小さな絵が部品となって大きな画像を形成する。歌川国芳「としよりのよふな若い人だ」(1847-48年)は部品が小さな人間で大きな画像は若い女性である。
「鞘絵(サヤエ)」:円柱の鏡に写すと何が描かれたかわかる判じ絵。すでに見たドメニコ・ピオラの絵と同じ手法。桜寧斎「鏡中図」(1750)がこれにあたる。
「影絵」:絵に描かれた物・人物を影に写すと別のものになる。後に宴会芸のハウツー本として流行る。歌川広重「即興かげぼしづくし、根上がりの松、梅に鶯」(1830-44頃)など苦労して演者がさまざまな影法師を作り出す様子が興味深い。体を張っている。
「Ⅴ.20世紀の巨匠たち:マグリット・ダリ・エッシャー」
ルネ・マグリット「無謀な企て」(1928)はびっくりする。絵筆が三次元の現実の人間を描き出す。
同「囚われの美女」(1931)ではキャンバスに隠された見えない背後の謎が一瞬、見え、解けたように思わせる。
同「白紙委任状」(1965)は木々の間を進む騎馬の女性の絵だが縦に生えた木々とそれらの間の空間が入れ替わり、また遠近の木同士も入れ替わり奇妙な効果を生み出す。
サルバドール・ダリ「アン・ウッドワード夫人の肖像」(1953)では夫人のシルエットと遠くの岩が同じ形を示し不思議である。
M.C.エッシャーの作品群はいずれも秀逸である。「昼と夜」(1938)は白い鳥と黒い鳥が図と地の反転を起こし昼と夜の場面が繰り返し連続的に変化する。「ベルベデーレ(物見の塔)」(1958)は現実にはあり得ない建物がありうるかのように描かれる。「滝」(1961)では落ちた滝の水が気づけば上から落ちてくる。
「Ⅵ.多様なイリュージョニズム:現代美術におけるイメージの策謀」
マルセル・デュシャン「アネミック・シネマ」(1925-26)は回転する独楽に描かれた模様が立体を生み出すトリックなどの映像化である。
高松次郎「遠近法のテーブル」(1967)は目の前にある近くのテーブルなのにすでに遠近を示し奇妙。
リサ・ミルロイ「皿」(1992)は壁に掛かったたくさんの本物の皿かと思うと実はすべて絵で壁に掛かれたものである。
福田美蘭「壁面5°の拡がり」(1997)は壁の絵が5°傾いているため壁にめり込んでしんまうという発想の作品である。壁の白さに呆然とする。
本城直樹「《small planet》シリーズより」(2006)はミニチュアの写真と見えるものが実は現実の写真だというトリック。
パトリック・ヒューズ「水の都」(2008)は見る位置によって景観を変える絵画。見飽きることがない。立体の上に絵が描かれているのに、平面だと鑑賞者が思い込んでいることが錯覚を生み出す。
とても盛りだくさんでめまいを感じるほどだった。作品は多くないが発想・アイデアの豊かさ・多さに圧倒される。
Bunkamuraの建物を出れば雨が降り出している。梅雨の季節の夜の雨。渋谷駅まで速足でもどる。