渋谷の夕方は曇り、暑かった。Bunkamura ザ・ミュージアムの『ロシア・アヴァンギャルド展:シャガールからマレーヴィッチまで』へ行く。
最初にカンディンスキーが抽象画を描く前の「海景」(1902)に出会う。これは印象派風に色鮮やかで海岸が具象的。
ネオ・プリミティヴィズムはゴーギャンの影響を受けるとともにイコンの様式性・装飾性を受け継ぐ。ゴンチャローヴァの「水浴する少年たち」(1911頃)がその典型である。シャガールもこの流れの下にあった時期があり「ヴァイオリン弾き」(1917)は故郷ロシアの村とユダヤ人の象徴であるヴァイオリン弾きを描く。(図はマルク・シャガール「家族」1911-12年)
マシコーフ「扇のある静物」(1915頃)は①セザンヌ的であり、②扇がゴーギャンを思い出させ、③フォービズムの色彩を持つ。
フランスのアンリ・ルソーと同様の素朴派が看板画家ピロスマニである。「小熊を連れた母白熊」(1910年代)は野性が持つ神性と悪魔性を高貴に描く。彼は100万本のバラを愛する女優に捧げたという逸話を持つ。
純粋抽象へ向かったのはマレーヴィチのスプレマティズムである。感覚の至高の力・絶対性(スプレマート)を対象なしにつまり知識・認識から離れて表現する。こうして「無対象の絵画」が生まれる。マレーヴィチ「スプレマティズム(白い十字架のあるスプレマティズムのコンポジション)」(1917-18)が代表的作品である。
この時代の後、同じくマレーヴィチの「農婦、スーパーナチュラリズム」(1920年代初頭)が強烈である。
アルキペンコ「小立像」(1914)はキュビズム的な異なる視点の再構成をブロンズで表現した。
スターリンによる1914年の権力掌握後、前衛芸術は迫害される。1933年には一切の芸術団体が解散させられ社会主義リアリズムのみが正統な芸術とされる。
アメリカに在住していたアルキペンコはこの迫害から自由でアール・デコの影響もあるブロンズ「美の賞賛、凹面の立像」(1925)がすばらしい。
分析・再構成の絵画理論を唱え「11の顔のあるコンポジション」(1934-35)を描いたフィローノフはこの6年後、餓死している。