京都新城
豊臣家が難波政経の力に訴えて得ていった御苑の関係を、死期が近い豊臣家が死に物狂いで利用して築城。
誰も、利用せずのまま、十五年程度で廃墟化。
御苑は、豊臣家の素性を知っており、深く厭がっていた。
果たして秀吉は、“京都の市街地を御土居と呼ばれる土塀で囲む”だの天正地割だので、京に大改革を及ぼしたか。
当時、そして現在のまとも理性人には、説明が段取りを要す。
秀吉は当然、いちいち指南はしていない。
死期が迫っている、と察知している豊臣家が、難波政経と京の関係を利用し、遮二無二、下品にかましめた施策がそれらであるが、その機能の公的目的と、施行の正統所以の存在領域を鑑みるに、これらは難波政経に於ける、自由挙手者による行政措置との捉えが妥当。
豊臣家が、京へ、何と権勢が優越しての、医療手術との捉えは、不成立。
自由挙手者は、豊臣家権勢に服していた。
では、豊臣家は、京に行政措置を、下賜したのか。
違う、との表現を、措置の鞘たる、難波政経に対し、要す。
ところで、天正地割なる、難波で勝手に筆記されたる書簡に載りたる施策を、京の公家はいちいち知るに至ったか。
至らんだった。
天正地割に服せしは、難波との往来履歴多き、難波政経服属人のみだった。
宗門への介入施策は、難波政経から加護を与えられていた寺が、難波への高僧の挨拶頻度を咎められない代わりに、今回は、豊臣家と難波政経の間の行政力の宣伝に従う事になった結果。
全ては、死期が近い豊臣家が、難波政経と京の間に、泣き付いての事で、実施力の根源は、難波政経にあった。
ところで、京は難波政経にいかなる負いを、負っていたのか。
大量なる商取引上の融通観念及び、現物の融通に尽きる。
難波を嫌いつつ、京は難波に世話になっていた。
御土居と呼ばれる土塀、なる遺構の存在には、この銘柄が不可欠だった。
京、ねお、が難波に発注せし、東北産の米、最優秀品種、名前は無い記号捉え。
瀕死の豊臣家は、難波政経に、京に対する行政措置を、施行せしめる。
品格、雲上なる京の着物に、豊臣家は刺繍を縫いたるぞ、が含意。
こうしたあがきを知った公家は京には不在。
豊臣家が京にどうの、なる歴史事実の主音は全てこれ。
果たして、秀吉は京に大改革を及ぼしたか。
瀕死の民主党がアメリカのIT銘柄の工場を外国に建設しまくった、としてまとも理性人は二者に同情はしない。
では、難波政経の実相とは如何に。
大は三カ所、ではなかった、二カ所数え、小は無数なる証券取引所と日本各地の最秀麗銘柄、平然陳列、相互密接拍動を抱える、銀行、商社、大小無数の取引先は外国たる博多、倉敷、福山、広島、清の福州、泉州、上海、北京。
政経力に於いて地球で難波に匹敵する市は無し。
彼方後方に、オランダのアムステルダム。
取引先の国々との、相互密接連絡、これ一、と大阪平野、これ一、そして難波各地降臨の異界の者、商取引、上品、下品、双方への非忌避種。
相互密接連絡を成立させしは、海運業の自前勃興力と、月伝来なる大量の固定電話だった。
磁気と重力、相互響鳴なる周波数帯を利用するこれの利用は健康を害すると知っていたが、後で欝になるのは無視して難波人は多用していた。
“喰い物と笑徳で治す”。
難波政経力とは、の説明はフランス地下からの宇宙船物流を、戴冠せし象徴とする。
京と金星の関係のみならず、実現には難波政経力による受容力を大量に要している。
難波政経力、堂々展覧屏風は毎日、卸屋に陳列銘柄、北海道の苫小牧の小豆、魚全種、秋田の米全種、アワ最高品種、岩手の森岡のイノシシの皮たる衒学武勲の象徴、日本随一品質であった猟銃、山形の果物全部、宮城の温泉卵と湯元別の湯、少女向け髪飾り、新潟のうるち米、鏡餅用の餅、山梨の葡萄とフランス伝来葡萄酒を模したる樽入り葡萄酒、飾り用マスカット(婦人受けが激しかった)、
静岡の最高品質の茶葉、名古屋の煎餅、ヨモギ饅頭、桜餅、柏餅、クコ茶、杜仲茶、松坂牛の祖先牛の霜降り、和歌山の梅干し、和歌山入手済みのインドネシア産の香木、四国からは麺、だしの原材料陳列、樽の砂利氷入りの四分割喰らい桃、イタリア伝来のピオーネ囲まれ、大分のヨモギ澱み混じり煎餅、鮭と米がミリンと酢で内部が米抱きな巨大なマスの寿司、宮崎の柑橘類全部、鹿児島最高級の灰色で灰の味がする頭脳、最高品格強制感得和菓子(政治家受けが激しき)、熊本産のい草、畳の材料、長崎のカステラとその亜流菓子、博多の明太子全種、麺全種、山陰からは梨やら果物全部、鶏肉全部、襖の意匠全部。
江戸が選択せし商慣行から敵対的と見なした江戸は、無し。 全部は、全種との意
秋田の郷土料理、きりたんぽ、だ。
これの価値、存在深部より上に在る料理は日本のほぼ全土から毎日、難波の卸屋に納入されていた。
沖縄はかつて、海運業同士で激しい口論に至り、関係は断絶していた。
江戸は合わん。
北海道は苫小牧以外は、難波は知らん土地。
長崎の出島着な舶来品は、現代に残る公史や江戸を無視し、大量が難波に日常的に漂着していた。
信長がまといし、南蛮渡来系の甲冑、金銀しつらえなる貴族向けの猟銃が大量、バテレン衣装全て、オランダ語、ドイツ語の聖書、カステラ、調理済み天婦羅料理、バテレンの中着なるレース状ワイシャツ、版画なる宗教絵画、ザビエル風貌を収めし絵画、イラン産の幅二十五糎程度、長さ二十四米なる展示目的絨毯、トルコ産の塩味とバター味アイス、ドイツ産ハムのスライス、太さ四糎なるソーセージ、オランダ産の食パン、イチゴジャム、ラズベリージャム、バター、ベルギー産のクロワッサン。
ここらの喰い物は、みやぐりん卸屋で展示のみ。
どこの料亭にも行かず、家畜のエサにもならず、廃棄。
アイスやらソーセージ、サラミは、卸屋の一部が少量を味わったまで。
理由は長く、間、に在った。
中途半端ごとの説明は長い。
卸屋での試食にも供されずだった。