無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

戦後間もない頃の教科書に学ぶ…その2

2009年09月04日 | Weblog
そのまま続きます。

報道に対する科学的考察


真実を探究するのは、科学の任務である。

だから、嘘と誠、間違った情報と真実とを区別するには、科学が真理を探究するのと同じようなしかたで、テレビ・新聞を通じて与えられる報道を、冷静に考察しなければならない。

乱れ飛ぶ情報を科学的に考察して、その中から真実を見つけ出す習慣をつけなければならない。

一、科学的考察をするに当たって、まず心かけなければならないのは、先入観念を取り除くということである。

われわれは、長い間の経験や小さい時から教えられ、言い聞かされたことや、最初に感心して読んだ本や、その他いろいろな原因によって、ある一つの考え方に慣らされ、何ごとをもまずその立場から判断しようとするくせがついている。それは、よいことである場合もある。しかし、まちがいであることもある。そういう先入観念を反省しないで物ごとを考えて行くことは、とんでもないかたよった判断にとらわれてしまうもとになる。昔の人は、風の神が風をおこし、地下のなまずがあばれると地震になると思っていた。そういう迷信や先入観念を取り除くことが、科学の発達する第一歩であった。

近ごろでも、日本人は、苦しい戦争の時には「神風」が吹くと信じて、大本営の発表ならばほんとうだと思いこんでいた。
そういう先入観念ぐらい恐ろしいものはない。
政治上の判断からそのような先入観念を除き去ることは、科学的考察の第一歩である。

二、次に大切なのは、情報がどういうところから出ているかを知ることである。

見たり、読んだり、聞いたりしたことを、そのまま信じこむことは、ただ単におろかなことであるばかりでなく、また非常に危険である。
だから、いつも自分自身に次のようなことを質問してみるがよい。
すなわち、誰がそれを書き、それを言ったか。
それはどんな連中だろうか。
かれらにはそういうことを言う資格があるのか。
どこで、どうしてその情報を得たか。
かれらは先入観念を持ってはいないか。
ほんとうに公平無私な人たちか。
あるいは、まことしやかなその発表の実に、何か利己的な動機が隠されてはいないか。

こういった質問を自分自身でやってみることは、確かに科学的考察の役に立つであろう。

三、テレビを見るとき、またラジオを聴くとき、新聞や雑誌などを読む時に、次のような点に注意する。

イ、社説を読んで、その新聞や雑誌のだいたいの傾向、たとえば、保守か、急進かをできるだけ早くつかむこと。

ロ、それがわかったならば、それとは反対の立場の刊行物も読んで、どちらの言っていることが正しいかを判断すること。

ハ、低級な記事をかかげたり、異常な興味をそそるような書き方をしたり、ことさらに人を中傷したりしているかどうかを見ること。

二、論説や記事の見出しと、そこに書かれている内容とを比べてみること。

記事の内容にはだいたいほんとうのことが書いてあっても、それにふさわしくない標題を大きくかかげ、読者にまるで違った印象を与えようとすることがあるから、標題を見ただけで早合点してはいけない。

ホ、テレビや新聞の経営者がどんな人たちか、その背後にどんな後援者がいるかに注意すること。

政府の権力に迎合する新聞を御用新聞というが、政府でなく金権階級におもねるような新聞も、御用新聞であることに変わりはない。

四、毎日のテレビ・新聞・ラジオは国際問題でにぎわっている。

今日では、国の内部の政治は国際問題と切り離すことのできない関係があるから、国際事情には絶えず気をつけて、その動きを正しく理解することが必要である。
戦争前の日本国民は、世界中が日本のやることをどう見ているかを少しも考えずに、ひとりよがりの優越感にひたっていた。
これからも、日本が国際関係の中でどういう立場におかれているかを、絶えずしっかりと頭に入れて、その上で国内の問題を考えて行かなければならない。
国際間の宣伝は、国内におけるよりももっと激しく、もっとじょうずに行われるから、いろいろなことを主張し、論争している国々の、ほんとうの目的を察知するように努めなければならない。
特に、言論や出版が政府の手で厳重に統制されている国に対しては、そういう注意が大切である。

五、世の中の問題は複雑である。問題の一つ面だけを取り上げて、それで議論をすることは、きわめて危険である。

だから、ある主張をする者に対しては、問題の他の反面についてどう思うかを聞いてみるがよい。
情報を読み、かつ聞くだけてなく、逆にこちらからもいろいろと疑問をいだいて、それを問いただす機会を持たなければならない。
それには、討論会などを盛んに開くことが有益である。学校などでも、クラスごとに時事問題についての討論会を行うがよい。
研究グループを作る時には、反対の考えの人々をも仲間に入れなければならない。
それは、科学者の行う実験のようなものである。
いろいろな場合をためしてみて、いろいろな人の研究の結果を聞くことによって、誤りはだんだんと取り除かれ、共通の一つの真実が見いだされる。

そういうふうにして、物ごとを科学的に考察する習慣をつけておけば、それが民主主義の社会で責任のある行動をする場合に、どんなに役に立つかしれない。

要するに、有権者のひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまく行かない。

国民が賢明で、物ごとを科学的に考えるようになれば、嘘のプロパガンダ(情報操作・世論誘導)はたちまち見破られてしまうから、だれも無責任なことを言いふらすことはできなくなる。

高い知性と、真実を愛する心と、発見された真実を守ろうとする意志と、正しい方針を責任をもって貫く実行力と、そういう人々の間のお互の尊敬と、協力と、……りっぱな民主国家を建設する原動力はそこにある。

そこにだけあって、それ以外にはない。…以上で、文部省の難しい教科書の授業を終わります。


テレビがまだ無い時代の書物なので、至る所に「テレビ」と「マスメディア」を入れた、大臣の視察のところは「自転車を使わずに、『馬』で村を回る」と書いてあった。

でも、今に通じるものがあると思わないですか?
例えば、


内容を理解しながら書いていたので頭が疲れてしまった。今日はここまで、またね。

といったものの、最後に今日の読売新聞社説を載せておく。自分で教科書のように科学的考察をして真実を見つけ出してほしい。
例えば、鳩山論文の全文を読んだり、本当にアメリカで「波紋が広がっている」のか調べたり、アメリカは日本が何でも言うことを聞く従属国であったほうが良いに決まっているワイな、とかいった科学的考察をして見てくださいね。

鳩山対米外交 信頼構築へ言動が問われる(9月4日付・読売社説)

日米の信頼関係を築くには「言葉」だけでなく「行動」が肝心だ。

民主党の鳩山代表がオバマ米大統領との電話会談で「日米同盟が基軸」との意向を表明し、未来志向の関係を築くことで一致した。ジョン・ルース駐日大使との会談でも、日米関係の強化を確認した。

民主党の衆院選勝利後、早々の大統領からの電話や大使の表敬訪問は、米政府が日本を重視すると同時に、今後の日米関係を心配しているため、と見るべきだろう。

というのも、米紙に最近掲載された鳩山代表の論文が「反米的だ」などと米側に受け止められ、波紋を広げているからだ。

論文には、「日本は米国主導の市場原理主義に翻弄(ほんろう)され続け、人間の尊厳が失われた」「米国の政治的、経済的行き過ぎは抑制したい」といった表現がある。

鳩山代表は「反米的な考え方を示したものでない」と説明する。

だが、論文が米国批判を含み、結果的に「反米的」との印象を与えた事実は否定できない。

米側の反応の背景には、インド洋での海上自衛隊の給油活動への反対や、在日米軍再編の見直しなど、従来の民主党の主張に対する不信感の蓄積もあるだろう。

鳩山代表は、もはや単なる野党党首でなく、次期首相の立場だ。
その発言の重みを自覚し、行動することが求められる。

野党時代のように、政府・与党との違いを強調することばかりに固執すべきではない。
継承すべき政策はしっかりと継承し、むしろ発展させる発想が大切だ。

今月下旬の国連総会に合わせた初の日米首脳会談、10月にゲーツ国防長官来日、11月にオバマ大統領来日と、重要な外交日程が続く。
最初は、日米同盟の重要性を「言葉」で確認すればいいが、それだけではすまされない。

テロとの戦い、北朝鮮の核、在日米軍再編、世界経済の回復など日米が連携して取り組むべき重要課題は多い。

日本は、問題解決のためにどんな役割を果たすのか。
例えば給油活動を中止するなら、具体的な代案を示すべきだ。

民主党は社民、国民新両党との連立政権協議で、「緊密で対等な日米同盟関係」を合意文書に盛り込むよう提案している。従来以上に米国に注文する狙いだろう。

だが、物を言う以上は、当然、日本が相応の国際的な責任を担う覚悟を忘れてはなるまい。

鳩山代表が再三口にする「オバマ大統領との信頼関係」は「行動」なしに実現しない。(2009年9月4日 読売新聞)


何をかいわんや、である。信じちゃダメよ、こんな社説!

もういちど、今日はここまで、またね。

戦後間もない頃の教科書に学ぶ…その1

2009年09月04日 | Weblog
相変らず、テレビは民主党批判を繰り広げている。

■見直すために凍結している補正予算を財務事務次官が「経済がこんな状況に置かれているのに凍結されている、早く何とかしてくれ!」と新政権を責めている映像を映し出すテレビ局。

M:前にも書いたように自民党の補正予算を実行したとして、庶民の生活が潤うようになるまでにどれだけの期間掛かると思っているのか。天下り先の財団・公団が潤い大企業が潤い下請け孫請けが潤うまでにである。しかも何年にも亘る史上空前の利益を上げ続けた時期でさえその間国民所得は下がり続けていたのである。つまり、今回の補正予算は下流(庶民)に辿り着かない可能性の方が高い。補正予算は上流(天下り団体・財団・公団・大企業)で堰き止められ、汲み取られ、下流にはちょろちょろ流れてくればいい方である。
補正予算の内容で見られるように(前に書いたものをコピー)

「花粉の少ない森林づくり資金」=首都圏近郊のスギの伐採・植え替え支援が目的 100億円

花粉と経済危機がどう結びつくのか?

「森林整備地域活動支援基金」=森林の境界を明確化するための支援が目的 31億円

緊急性はゼロ

「馬産地再活性化基金」=軽種馬生産者の経営体質強化支援が目的 50億円

この時期に馬の育成を支援する目的がサッパリだ。

「国立メディア芸術総合センター(仮称)」=117億円


こういった補正予算は確かにこの事業に携わる業者・企業は潤うかもしれないが、全国民の困窮を早急に解決させる政策とは思えない。
景気は一般消費・民間設備投資・公共投資・輸出入で成り立っているが、一般消費が全体の60%を占めている。
(昔は一般消費70%近くて、公共投資は10%強であったが、今は景気悪く、一般消費60%弱、公共投資17~18%と公共投資の率が高くはなっているが…)
民主党は、直接、この一般消費を刺激する方が景気回復は早いとして政策を打ち出しているのだ。

この補正予算について「こんなやり方では困窮している国民救済の対策は間に合わない」との批判はしないで、民主党が「この補正予算を見直す」とストップを掛けたことには官僚トップのコメントを流し「不況の時にストップして国民は迷惑している、どうしてくれる!」と民主党批判する。マスメディアは「バカばっかり」と言いたくなってしまう。…本当は国民にとって(マスメディアは)もっと危険な存在であるのだが。

■民主党の幹事長が小沢氏に決定したニュースで各マスメディアは「小沢氏の秘書が西松建設違法献金事件で逮捕されたことへの説明責任が果たされていない、鳩山次期首相の「故人」献金問題も含め、納得出来ないとしている国民に対し、両氏に、この説明責任が再び求められることになる」といったようなコメントを流していた。本当に「バカじゃないか」…そればかりか小沢氏を西松汚職事件の主犯・単独犯扱いしているマスメディア。後で書くが、このマスメディア報道は国民に対する大犯罪である。

マスメディアの次期政権批判は続々と出てくるので以上で止めるが、原点に戻ってマスメディアについて考えてみる。


今ほど、マスメディアが発達していなかった60年前に文部省が作成した教科書「民主主義」には、報道・宣伝について多くのスペースがとられている。

それほど、民主主義にとってマスメディアの役割は大きいものがある、すなわち国民に対する影響は大きい、と考えられていたのである。

その教科書の文言自体が古臭いので、今の言葉に変えて書いて見る。そこには半世紀以上前の著作とは思えない、今でも通用する考察が満載である。


(以下、終戦間もない時期に書かれた文部省作成教科書より引用)

マスメディアが流す情報、それは国民に対して、現在どういうことが問題となり、どんな点に関心が持たれているかを知らせる道であると同時に、国民の代表者たちに世論の傾向を判断させる有力な材料ともなるのである。
 
しかし、マスメディア(新聞・テレビ・ラジオ・雑誌など)は、もちいかた如何によっては、世論を正しく伝える代わりに、ありもしない世論をあるように作り上げたり、ある一つの立場にだけに有利なように世論を曲げていったりする非常に有力な手段ともなりうる。

もしも、自分たちだけの利益を図り、社会の利益を省みない少数の人々が、カネと権力でテレビ・新聞等を支配し、一方的な意見や、ありもしない事実を書き立てさせるならば、国民大衆が実際には反対である事柄を、あたかもそれを欲しているように見せかけることができる。

そうして、国民の代表者がそれにだまされるだけでなく、国民自身すらもが、いつのまにかそれをそうだと思いこんでしまうこともまれではない。

人々は、その場合、マスメディアの世論操作=プロパガンダに乗せられているのである。

マスメディアを通じて行われる情報伝達は、何も悪い働きだけをするわけではない。

偽らない事実、国民が知らなければならない事柄を、テレビ・新聞によって広く国民に伝えるのは、ぜひしなければならない情報伝達である。

そういう正確な事実や情報を基礎にして、良識のある国民が「これはこうでなければならない」と判断したことが、本当の世論なのである。

しかし、プロパガンダは悪用されると、とんでもない方向に向かって国民の判断を誤らせることになるのである。

少人数だけで計画していることが、金と組織の力を通じて議会を動かし国民に大きな不利益をもたらすような法律を制定させてしまうことも有り得る。

だから、マスメディアのプロパガンダの正体をよく掴み、それが本物であるか、ニセモノであるかを明らかに識別することは、民主国家の国民にとっての非常に大切な心がけであるといわねばならない。


プロパガンダは(その語源となった時期よりも)もっとずっと古い時代からあった。

昔の日本でも、大名同士が戦った時、軍事上の作戦を有利に展開するために耳から耳へ伝える私語宣伝が行われた。

たとえば、人民たちに強い敵対心を植えつけるために、敵を惨酷・非道な者のように言いふらしたり、大義名分は自分の方にあると思いこませる手だてが行われた。

このように、昔は耳から耳への言葉によるプロパガンダ(情報伝達)がほとんど唯一の方法であったが、今ではマスメディアが発達し、それを通じてプロパガンダがきわめて有力に行われるようになった。
しかし、前にも言ったようにプロパガンダ(情報伝達)はしばしば悪用される。

そういう悪い意味でのプロパガンダとは、利己的な目的をわざと隠して、都合のよいことだけをおおぜいの人々に伝え、それによって自分たちの目的を実現するための手段なのである。

日本国民に大きな悲劇をもたらしたあの太平洋戦争でも、政府や軍部が権力と金とをつかってプロパガンダを行なったために、初めは戦争をしたくないと思っていた人々も、だんだんと戦争をしなければならないという気持になり、戦争に協力するのが国民の務めだと信ずるに至った。

実際には負け続けてばかりいたのに、まことしやかな大本営発表などというものに欺かれて、勝ちいくさだと思いこんでしまった。
戦争がすんで、これほどまでにだまされていたのかとわかっても、あとの祭であった。

プロパガンダの力の恐ろしさは、日本国民が骨身にしみるほどに知ったはずである。

民主主義の世の中になって、議会政治が発達すると、政党が重大な役割を演ずるようになる。

政権政党は政府の実権を握るためにカネと権力でマスメディアを支配し、国民に呼びかけたり、さまざまな活動をする。
その中には、正々堂々たるプロパガンダもあるだろうが、隠れた目的のための情報操作がまざっていることもある。

そうなると、一般の有権者はどれを信じてよいかわからなくなり、途方にくれ健全な判断力を失い間違った主張を支持することになりやすい。

それを冷静に判断しうるのが「目ざめた有権者」である。

理想的な民主主義の国を築くためには、選挙に加わる国民のすべてが目ざめた有権者にならなければならない。


M:今の国民に通じるものがあると思いませんか?
  この教科書では更に続けて「プロパガンダ(情報操作)によって国民をあざむく方法」のタイトルで次の様に書いている。


煽動政治家が決まって目をつけるのは、いつもふみにじられて世の中に不平を持っている階級である。
こういう階級の人たちは、言いたい不満を山ほど持っている。
しかし、訴えるところもないし自分たちには人を動かす力もない。それで、しかたなく黙っている。

煽動政治家は、そこをねらってその人たちの言いたいことを大声で叫ぶ。その人気を取る。

もっともらしい公式論をふりまわして、こうすれば富の分配も公平にいき、貧困階級の地位も向上するように思い込ませる。

自分をかつぎ出してくれれば、こうもするああも出来ると約束する。
(中略)かれらの思うつぼである。そこを利用して政権にありつく。

公約を無視して勝手な政治をする。

結局、一番犠牲になるのは、政治の裏面を見抜くことのできなかった民衆なのである。
 
煽動政治家が民衆を煽動することをデマゴジーという。
日本では、略してデマという。
日本語でデマを飛ばすといえば、いい加減なでたらめなことを言いふらすという意味である。
デマがデマだとわかっていれば、弊害はない。

(今のマスメディアの)まことしやかなデマには、よほどしっかりしていないと、たいていの人は乗せられる。
自分に有利なデマ、相手に不利なデマ、それが入り乱れて飛び、人々はそれを信ずるようになってしまう。

権力者・マスメディアが民衆をあざむく方法には、次のような種類がある。

第一に、権力者・マスメディアは競争相手やじゃまな勢力を追い払うために、それを悪名をもって呼び、民衆にそれに対する反感を起こさせようとする。

今までの日本では、自由な考えを持った進歩的な人々が「あれはアカだ」という一言で失脚させられた。
国賊・左翼・アカ・共産主義者などいろいろな名称が利用された。
いまでは「反日」「愛国心が無い」「被虐史観」「北朝鮮・中国の手先・工作員」「日本は日教組に侵略される」等。

第二に、それとは逆に、自分の立場に立派な看板をかかげ、自分の言う事に美しい着物を着せるという手である。

「国際貢献」「テロとの戦い」「海賊退治」「正義」「民主主義」などという言葉は、そういう看板には打ってつけである。

第三に、自分たちの担ぎ上げようとする人物や、自分たちのやろうとする計画を、かねてから「国民の尊敬している者」と結びつけて、民衆にその人物を偉い人だと思わせ、その計画を立派なものだと信じさせるやり方である。

例えば、ドイツ国民には、民族というものを大変に尊く思う気持ちがあった。
ナチス党は、そこを利用してヒトラーはドイツ民族の意志を示すことのできる唯一の人物である、というように言いふらした。
また、日本人には昔から天皇をありがたいと思う気持がある。
戦争を計画した連中は、そこをつかって天皇の実際のお考えがどうであったかにかかわらず、自分たちの計画通りに事を運ぶのが「天皇のお心に適うところだ」と宣伝した。
そうして、赤い紙の召集今状を「天皇のお召し」だと言って、国民をいやおうなしに戦場に送った。

第四に、国民の人気を集めるために、民衆の気に入るような記事を書き人々が感心するような映像をテレビで流すという手もある。

例えば、普段は豪邸に住んで、庶民には縁の無い高級料亭で毎日接待され、豪勢な生活をしている財界人でも、土光さんはメザシと味噌汁の質素な食事が好き、とその場面を映像で見せれば、人々はそのお金持ちを自分たちの味方だと思う。

総理大臣が高級外車で遠い郊外にでかけて、貧しい村の入口で自転車に乗り替え、農家を訪問して慰労の言葉を語っている場面をテレビ放映すれば、人々は、忙がしい大臣が車にも乗らずに民情を視察しているのだと思って感心する。
そう言えば、ある首相が砂浜のゴミを拾って「きれいな町作り」に協力しているテレビ放映の裏話で、ゴミを側近の連中が首相の前に投げておき、それを首相が拾う場面をカメラが映したそうで、首相がゴミ拾いで砂浜を走り回ったわけではない、完全に「ヤラセ」である。

第五に、真実と嘘を上手に織りまぜる方法である。

如何なるプロパガンダも、嘘だけでは遅かれ早かれ国民に感づかれてしまう。
そこで、本当のことを言って人をひきつけ、自分の話を信用させておいて、だんだんと嘘まで本当だと思わせることに成功する。
あるいは本当の事実でも、その一つの点だけを取り出して示すと、言い表し方次第ではまるで逆の印象を人々に与えることもできる。

その一例として、次のようなおもしろい話がある。

インド洋を航海するある貨物船で、船長と一等運転士とが一日交替で指揮にあたり、当番の日の航海日誌を書くことになっていた。船長はまじめ一方の人物だが、一等運転士の方は老練な船乗りで、暇さえあれば酒を飲むことを楽しみにしていたために、二人の仲はよくなかった。

ある日、船長が当番の日に、一等運転士が酔っぱらってウイスキイのあきびんを甲板の上にころがしているのが目についた。船長は、それをにがにがしく思ったので、その晩航海日誌を書く時に、そのことも記入しておいた。
翌日、一筆運転士が任務についてその日誌を読み、真っ赤に怒って船長に抗議を申しこんだ。
「非番の時には、われわれは好きなことをしてよいはずです。私は、任務につきながら酒を飲んだのではありません。この日誌を会社の社長が読んだら、私のことをなんと思いますか。」
「それは私も知っています。」と船長は静かに答えた。「しかし、君がきのう酔っぱらっていたことにはまちがいはない。私は、ただその事実を書いただけです。」

内心の不満を押さえて任務に服した一等運転士は、その晩の航海日誌に「きょう、船長は一日じゅう酔っぱらっていなかった。」と書いた。
次の日にそれを見て怒ったのは、船長である。
「私が酔っていなかったなどと書くのは、けしからんではないか。まるで、私は『他の日はいつも酔っぱらってでもいる』ようにみえる。私が酒を一滴も飲まないことは、君も知っているはずだ。君はウソの報告を書いて私を中傷しようとするのだ。」
「さよう。あなたが酒を飲まないことは、私もよく知っています。しかし、『あなたがきのう酔っていなかった』ことは、事実です。私は、ただその事実を書いただけてす。」と一等運転士はひややかに答えた。

航海日誌に書かれたことは、どちらも事実である。
しかし、言い表わし方の如何によっては、事実とは反対の印象を読む人に与えることがこれでわかるであろう。


現代の発達したマスメディアで一番大きな役割を演じているのは、テレビ・新聞である。
テレビ・新聞は、世論の忠実な反映でなければならない。
むしろテレビ・新聞は確実な事実を基礎として、世論を正しく指導すべきてある。
しかし、逆にまたテレビ・新聞によって世論がねつ造されることも多い。

テレビ・新聞がプロパガンダのツールとして持つ価値が大きいだけに、これを利用しようとする者は、…中略…
メディアに、そんな事情(略した)で嘘の書かれていることが多いとすれば、それをきびしく監督し、政府が前もって検閲して、そのような弊害を防止すればよいと思うかもしれない。
しかし、それはなお悪い結果になる。
なぜならば、そうすると今度は政府がその権力を利用して、自分の政策のために不利なような論説や記事を差し止め、その立場にとって有利なことだけを書かせることになるからである。
それは、国民をメクラにし、権力者がマスメディアを独占する最も危険なやり方である。
言論機関に対する統制と検閲こそ、独裁者の用いる一番有力な武器なのである。

だから、民主国家では、必ず言論・出版の自由を保障している。
それによって、国民は政府の政策を批判し不正に対しては堂々と抗議することができる。
その自由がある限り、政治上の不満が直接行動となって爆発する危険はない。
政府が危険と思う思想を抑圧すると、その思想は必ず地下にもぐって、だんだんと不満や反乱の気持ちをつのらせ、ついには社会的・政治的不安を招くようになる。
政府は、国民の世論によって政治をしなければならないのに、その世論を政府が思うように動かそうとするようでは、民主主義の精神は踏みにじられてしまう。

政治は真実に基づいて行われなければならない。
だから、自由な言論の下で真実を発見する道は、国民が「目ざめた有権者」になる以外にはない。
目ざめた有権者は、最も確かな嘘発見器である。
国民さえ賢明ならば、テレビ・新聞が嘘の映像を流したり、嘘を書いても売れない・視聴率に繋がらないから、真実を報道するようになる。
国民の正しい批判には勝てないから、テレビや新聞のようなマスメディアは真の世論を反映するようになる。
それによって政治が常に正しい方向に向けられて行くのだ。

(字数制限にひっかかたので、次にそのまま続きます。