もう政府の愚民化政策はかなり進行している。
「きっこの日記」に一例が載っていたので、紹介する。
「きっこの日記~12月6日」http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20071206
このブログは「現在の自民党の実質的な総理大臣、森喜朗は、…」で始まっているので、この森・元首相について説明しておく。
この森喜朗は、日本の昔からの因習(やり方)で自民党議員を牛耳ってきた。
それは、自民党新人議員などに、酒・女・金で“いい思い”をさせ、“恩を着せ”、「自民党内でオレのいうことを聞かないと、やっていけない。」(自民党内で村八分になる)と半ば強制的に(反対を許さない形で)、特権を利用した倫理に反する“甘い汁”を吸わせて“同じ穴のムジナ”とし、内部告発と言った正義感を奪い取るやり方で自民党の議員達の“弱みを握り”従わせる(逆らえなくする)手法をとって自民党内でボスとして君臨している。それが、きっこさんの「自民党の実質的な総理大臣」という表現になっている。
さて、きっこさんのブログは、転載禁止になっているので、無風流に話の内容を要約すると…。
この自民党の実質的な総理大臣森善朗は、大阪人が嫌いで、正式な懇談会の壇上で大阪人を貶し、「大阪はタンツボだ」と表現した人である。(大阪人はタンツボの中の痰だ、といった人)
「これが、今の自民党を代表する政治家の持ってる認識であり、あたしは、こんな人間を影のトップに置いてる政党なんかを支持してる大阪の人達がいることが信じられない。」…この部分そのまま引用
きっこさんは生粋の江戸っ子(東京っ子)だが、「そんなあたしでも、国民の税金でゼイタクな暮らしをしてる政治家が、自国の特定地域のことや、そこで暮らしてる人たちのことを『タンツボ』だの『タン』だのって、それも、オオヤケの場で発言するなんて、絶対に許せない。」(直引用)と書いている。
更にきっこさんは、森喜朗は、男尊女卑の考えを持っており女性差別発言も多い、と指摘して次の様に言っている。
「『子供を産まなかった女には年金を払うな』とか『女は視野が狭い』とか、ことあるごとに女性を差別し続けてる。だから、あたしは、女性なのに自民党を支持してる人も理解できない。
つまり、『大阪在住の女性』で自民党を支持してる人って、あたしには、まったく理解できないってワケだ。」…直接記載…引用終り
「きっこの日記」の例は、大阪市民に限らず、国民全体に言えることだ。
子供の喧嘩がいけないことは誰でもが認識しており、昔から『喧嘩両成敗』と言われる通り、喧嘩という相手に対し『暴力』を振るって解決しようとする行為は例え相手が先に手を出したとしても『悪い』行為となる。
無風注:私も子供の頃よく喧嘩して、先生から怒られたが、先に手を出したのは相手なのに(相手が悪いのに)…、『絶対に私の方が正しい』『私は間違っていない』とその先生の行為を理不尽に思ったものだ。大人になって殴り合いの喧嘩で物事を解決しようとする行為そのものが間違っている、と気付いたのだが、戦争も同じである。戦争は国民のためにならない。馬鹿な地球人は2000万人以上の死者を出すことによって『反省』し「国連憲章」や「日本国憲法」が出来たのに、また『政府の手によって』戦争への道を歩かされている。
ついでなので、横道に逸れてもう一言。
大人の社会では恐喝・窃盗・殺人未遂等の犯罪は警察に届け、警察が取り締まることになっている。逆にリンチは禁止されている。
子供の世界で、いつから先生に言いつけることが『悪いこと』になったのだろう。
いじめで自殺した子供の遺書を見ると、お金を渡すようになったのは4人に川に連れて行かれて水の中で頭を押さえつけられ、死の恐怖を体験したからで、その4人はその子の家に遊びに来て家の金を盗んだり、その子からカネを巻き上げたりしていた。
その子は親から「カネを盗んだ」と責められ、先生にも相談出来ず自殺を選ぶ結果となったが、これが大人の場合、恐喝であり、殺人未遂であり、窃盗である。
この、れっきとした犯罪が成立しているのに、何で子供の世界でこんなことが許されるのか。
いつから、子供の世界は「治外法権」の無法地帯と化したのか?
昔は学校で誰かが悪いことをすると、必ず「先生、誰々君が○○君をいじめてます!」と『正義』を主張する子がいて、悪いことをした子は先生に怒られたものである。
いじめで自殺した子の遺書を見ると、親や先生が子供を一人前に育てて社会に出すといった「しつけ」や「教育」をしていないのでは、と感じる。
さて、話を元に戻すが、
きっこさんが指摘したように、「政権政党を牛耳っているボスが、大阪人を『タンツボの痰』といい女性を蔑視しているのに、その政党に投票する大阪人や女性がいることが信じられない」ことであり、これは国と国民の関係でもいえるのである。
「戦争」の為、「アメリカ」の為、に税金を湯水のように使い、国民の生存権すらもないがしろにして、これも国益の為=国民の為、といった『嘘』で国民を騙せるとタカをくくっている。国民は完全に馬鹿にされているのに、大阪の自民党支持者と同じく、その政党を支持し投票しているのである。
今日もNHKニュースで政府方針による長期入院患者(病室)を60%削減することになり途方にくれている入院患者の様子が映されていた。津久井弁護士が大阪西成の姥捨て山事件(病院が患者を公園に捨てる事件)を取り上げ政府のこの対応を批判していたが、政府がドンドン、国民の社会保障を切り捨て、「障害者自立支援法」「ホワイトカラー・エグゼンプション」(エグゼンプションは、免税とか免除といった感覚的には良いイメージの言葉)といった文言で国民を誤魔化して、国民生活を破滅に向かわせているのに、そして、憲法を改正して国民を国の奴隷にしようとしているのに、国民はその政党を支持し投票しているのである。
今でも、教育基本法の改正により地方自治体が「訓練」を住民に実施することになり、勤労の義務でせっせと働いて生活費を稼いでいる国民に休暇を取って消防訓練に参加させられるようになった。自民党の新憲法草案が可決されると国民は参加を義務付けられ、国民は毎週でも国防訓練に参加しなければならなくなるのです。
新憲法は国民に「国防の義務」を与えていますから、当然「徴兵制」の復活です。
軍隊は新憲法草案が成立すると憲法から完全に独立し(軍隊に関することは全て『法律で定める』ことになるので)憲法の歯止めは全くなくなり、新憲法に盛り込む「軍事裁判所」で『敵前逃亡者』(戦争はイヤだという者)を銃殺刑にすることが出来るようになります。
自民党改正意見の中には、自民党のボスの発言や「女性は産む機械」発言のように「家庭での男女同権は見直すべき」とあり、女性は奴隷どころか「機械」と看做されることになるのですが、その政党に投票する女性がいる。
本当に信じられない。これは政府の愚民化政策の成果です。
ほんと、言いたいことが一杯あって纏まらない。
「天木直人のブログ」にいいことが載っていたので引用して今日はここまでとします。
「天木直人のブログ~12月8日」http://www.amakiblog.com/archives/2007/12/08/
「国家はいらない」という本
たとえばこの一年に限ってみてもいい。政府は国民の生活のために一体どんな施策を講じてくれたと言うのか。
政権を放り出した安倍前首相が再び議員復活を宣言したという。
防衛疑惑は何も明らかにされないまま終わりそうだ。テロ特措法をめぐる大騒動はいつまでたっても進展しない。膨大な時間の無駄だ。
本来なら終盤国会の緊張した時期である。
それにもかかわらず用もないのに明らかな政争目的で大挙して訪中する民主党の暴挙を誰もおかしいと声をあげない。あれほど改革、改革と叫んでいたのに、行革を進めようとする渡辺行革大臣が孤立している。自民党はおろか、世論もマスコミも渡辺大臣を頑張れと応援する風でもない。
たまたま本屋で目にした「国家はいらない」(洋泉社)という本を買い求めて読了した。そしてこれは今の日本国民にとって必読の書であると思った。
日本の混迷の原因は、実は国家の機能不全、あるいは、不適切、不必要な干渉の結果もたらされたものである事がわかるのだ。
著者の蔵研也という40過ぎの学者について私は何も知らない。しかしそこに書かれている内容は、常日頃から私が考えている事を見事に表現してくれている。
国家なんかいらないと言う事である。
いや、より正確に言えば国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事である。
彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識である。
「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである。
勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある。
彼は面白いエピソードを引用しながら、「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している。
すなわちこういう事である。
街で見かける募金活動の多くは許可を取ることなく活動してその募金を私物化している。いわゆる詐欺である。それにもかかわらず、募金をする人々は多い。
この事が示しているのは、人々の心には他人の事を思いやる、あるいは社会全体のために何かをしたい、しなければならないという意識があるのだ。「公益」への希求が誰の心の中にもそれなりにあるのだ。その心があるからこそ、「公益性がある」と言われれば仕方がないと思って協力し、我慢をするのだ。
しかしこの「公益性」という言葉ほど曖昧なものはないと蔵氏は言う。そしてあまりにも多くの既得権益者が自分の都合の良いようにこの「公益」という言葉を持ち出し、結果として…一般国民の生活を搾取する事になっていると蔵氏はいう。
その典型が政治家や官僚やそれにつながる多くの公益法人、公益事業、公益法人とそこに働く既得権益者なのである。
この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。
世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。
だから「国家はいらない」と言うのだ。
我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。
現実に何が行われているか、それを詳しく正確に知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である。
「天木直人のブログ~12月10日」http://www.amakiblog.com/archives/2007/12/10/
増税を許してはいけない
本日発売の月刊文芸春秋に、元大蔵省(財務省)官僚の高橋洋一(現内閣参事官)という人物が、「大増税キャンペーンに騙されるな」という論文を寄稿している。
これは国民の必読の論文であると思ってこのブログでとりあげることとした。
その論文の主張は一言で言えばこうだ。
膨大な赤字を抱えた日本の財政を立て直すには増税止む無しという風潮が政府からしきりに流される。
善良な国民は、そしてある程度生活にゆとりのある国民は、日本を救うためにはそれも仕方がない、などと思い始めている。
しかしその前に真実を知らなければならない。
本当に増税は不可避な状況なのか。
増税しなければ年金も社会保障も医療保険もなにもかも立ち行かなくなるのか。
決してそうではない。
政府の説明の裏には、財政均衡主義(極端に言えば財政さえ立ち直れば国民経済が苦しくなって構わないという考え方)を最優先する大蔵(財務)官僚に主導された国民搾取の政策がある。
政府にはまだまだ国民から集めた膨大な余剰資金がある。
それを吐き出させるまでは安易な増税を許してはいけない、こういう主張である。
もっとも、私は高橋氏が文春に寄稿した動機の不純さを疑っている。
彼は自ら認めているように小泉・竹中「構造改革」に協力して財務省を離れ、今は政府内部の改革派(上げ潮派)と増税派(与謝野、谷垣派)の政争の一方に与している政治任用の官僚に過ぎない。しかも小泉・竹中改革は偽物だ。本当の改革には手をつけず、米国金融資本に日本経済を売り渡すことを改革と偽った小泉・竹中のブレーンである。
しかも小泉一派の中川秀直などが盛んに増税反対を唱えているが、それは決して国民生活をおもんばかっての増税反対ではない。選挙目当ての一時的反対である。要するに現在政府内部で行われている増税反対、賛成論議は、政治家・官僚の権限保持のための論議であり、保持した権限の奪い合いの内輪もめに過ぎないのだ。
しかしその事を十分認識した上で高橋氏の論文を読めばいいのである。
元大蔵(財務)官僚が明らかにする増税の実態を知る事は国民にとって有益である。
国民はこれを読んで目覚め、政治家や官僚に抵抗していかなければならない。
高橋論文で私が注目した主要点はたとえば次の通りである。
まず高橋氏は「増税ありき」の根拠になっている財政諮問委員会の増税試案の嘘を暴いている。
この試案は民間有識者の増税試案という形になっているが、実際は財務官僚がすべて原案をつくり諮問会議がそれを追認するだけである。
しかもその財務省試案は都合のいい数字ばかりを並べたて増税止む無しという結論を誘導しているのだ。
一例をあげれば、なぜ歳出の増加が不可避であるのかという説明のところで、公務員の人件費増や公共事業費の増を当然のごとく盛り込み、本来行われるべき無駄な歳出の削減努力が一切なされていないという。安易な歳出の増加を増税で手っ取り早く賄うという事である。
次に、財政赤字を強調する一方で、実は膨大な政府資金の余剰があるという事実である。
この事については、最近では「埋蔵金の有無」という世俗的な問題にすりかえられている。
しかし埋蔵金などではなく、れっきとした政府予算の余剰金なのである。
すなわち各省が所管しているおびただしい特別会計の中に、一般会計の規模をはるかに超えた余剰金、積立金がある。
その原資は様々な形で国民から吸い上げた金なのである。
たとえば財務省は為替変動に対応する(為替介入)資金として16兆円の積立金持っている。外国為替資金特別会計である。
国交省は自賠責保険特別会計を持っている。保険料を取りすぎて資産超過になっているという。国交省はまた道路特別会計を持っていて、その資金は余っている。それを使って無駄な道路を作ったりしている。これら特別会計はそれぞれの省庁が管理する既得権になっている。だからそれぞれの省庁は決して手放そうとしない。各省の隠し財源になっているのである。
赤字財政に苦しんでいるはずの国家財政にもかかわらず、日本政府は300兆円もの金融資産をほしいままに動かしている。
日本の名目GDPは500兆円というからその約6割である。
この比率は先進国の中でもダントツに大きく、たとえば米国の約10倍であるという。
日本政府は世界一金を持っているのだ。
日本の官僚は世界一大きな資金を動かす権限を持っているのだ。
それにもかかわらず、その予算を国民生活の為に適切に使っていない。
国民に還元していない。
しかもこの事実が最近までほとんど議論されないまま隠されてきたのである。
この現実を国民が少しでも知ったなら、金が足りないからと言って当然のごとく増税を行う、そんな暴政を認めるわけにはいかない事がわかる。
増税はビタ一文許してはいけないのである。…引用終り
無風注:内容についてのコメントは控えるが、今の「ディベートにならないブロガー達」に見習って欲しいのは、天木氏が高橋氏の「動機の不純さ」を充分理解したうえで取り上げている、その姿勢である。
例えば、「高橋氏は○○という意図(ウラ・魂胆)があって書いているので、そんな人の意見が聞けるか!」(俺はわかっているんだぞ)としたり「彼は左翼思想の持ち主だから」といってその人の意見を嘲笑的に全否定するブログを書く人は、この天木氏の「考え方」を見習って欲しい、のである。
「きっこの日記」に一例が載っていたので、紹介する。
「きっこの日記~12月6日」http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20071206
このブログは「現在の自民党の実質的な総理大臣、森喜朗は、…」で始まっているので、この森・元首相について説明しておく。
この森喜朗は、日本の昔からの因習(やり方)で自民党議員を牛耳ってきた。
それは、自民党新人議員などに、酒・女・金で“いい思い”をさせ、“恩を着せ”、「自民党内でオレのいうことを聞かないと、やっていけない。」(自民党内で村八分になる)と半ば強制的に(反対を許さない形で)、特権を利用した倫理に反する“甘い汁”を吸わせて“同じ穴のムジナ”とし、内部告発と言った正義感を奪い取るやり方で自民党の議員達の“弱みを握り”従わせる(逆らえなくする)手法をとって自民党内でボスとして君臨している。それが、きっこさんの「自民党の実質的な総理大臣」という表現になっている。
さて、きっこさんのブログは、転載禁止になっているので、無風流に話の内容を要約すると…。
この自民党の実質的な総理大臣森善朗は、大阪人が嫌いで、正式な懇談会の壇上で大阪人を貶し、「大阪はタンツボだ」と表現した人である。(大阪人はタンツボの中の痰だ、といった人)
「これが、今の自民党を代表する政治家の持ってる認識であり、あたしは、こんな人間を影のトップに置いてる政党なんかを支持してる大阪の人達がいることが信じられない。」…この部分そのまま引用
きっこさんは生粋の江戸っ子(東京っ子)だが、「そんなあたしでも、国民の税金でゼイタクな暮らしをしてる政治家が、自国の特定地域のことや、そこで暮らしてる人たちのことを『タンツボ』だの『タン』だのって、それも、オオヤケの場で発言するなんて、絶対に許せない。」(直引用)と書いている。
更にきっこさんは、森喜朗は、男尊女卑の考えを持っており女性差別発言も多い、と指摘して次の様に言っている。
「『子供を産まなかった女には年金を払うな』とか『女は視野が狭い』とか、ことあるごとに女性を差別し続けてる。だから、あたしは、女性なのに自民党を支持してる人も理解できない。
つまり、『大阪在住の女性』で自民党を支持してる人って、あたしには、まったく理解できないってワケだ。」…直接記載…引用終り
「きっこの日記」の例は、大阪市民に限らず、国民全体に言えることだ。
子供の喧嘩がいけないことは誰でもが認識しており、昔から『喧嘩両成敗』と言われる通り、喧嘩という相手に対し『暴力』を振るって解決しようとする行為は例え相手が先に手を出したとしても『悪い』行為となる。
無風注:私も子供の頃よく喧嘩して、先生から怒られたが、先に手を出したのは相手なのに(相手が悪いのに)…、『絶対に私の方が正しい』『私は間違っていない』とその先生の行為を理不尽に思ったものだ。大人になって殴り合いの喧嘩で物事を解決しようとする行為そのものが間違っている、と気付いたのだが、戦争も同じである。戦争は国民のためにならない。馬鹿な地球人は2000万人以上の死者を出すことによって『反省』し「国連憲章」や「日本国憲法」が出来たのに、また『政府の手によって』戦争への道を歩かされている。
ついでなので、横道に逸れてもう一言。
大人の社会では恐喝・窃盗・殺人未遂等の犯罪は警察に届け、警察が取り締まることになっている。逆にリンチは禁止されている。
子供の世界で、いつから先生に言いつけることが『悪いこと』になったのだろう。
いじめで自殺した子供の遺書を見ると、お金を渡すようになったのは4人に川に連れて行かれて水の中で頭を押さえつけられ、死の恐怖を体験したからで、その4人はその子の家に遊びに来て家の金を盗んだり、その子からカネを巻き上げたりしていた。
その子は親から「カネを盗んだ」と責められ、先生にも相談出来ず自殺を選ぶ結果となったが、これが大人の場合、恐喝であり、殺人未遂であり、窃盗である。
この、れっきとした犯罪が成立しているのに、何で子供の世界でこんなことが許されるのか。
いつから、子供の世界は「治外法権」の無法地帯と化したのか?
昔は学校で誰かが悪いことをすると、必ず「先生、誰々君が○○君をいじめてます!」と『正義』を主張する子がいて、悪いことをした子は先生に怒られたものである。
いじめで自殺した子の遺書を見ると、親や先生が子供を一人前に育てて社会に出すといった「しつけ」や「教育」をしていないのでは、と感じる。
さて、話を元に戻すが、
きっこさんが指摘したように、「政権政党を牛耳っているボスが、大阪人を『タンツボの痰』といい女性を蔑視しているのに、その政党に投票する大阪人や女性がいることが信じられない」ことであり、これは国と国民の関係でもいえるのである。
「戦争」の為、「アメリカ」の為、に税金を湯水のように使い、国民の生存権すらもないがしろにして、これも国益の為=国民の為、といった『嘘』で国民を騙せるとタカをくくっている。国民は完全に馬鹿にされているのに、大阪の自民党支持者と同じく、その政党を支持し投票しているのである。
今日もNHKニュースで政府方針による長期入院患者(病室)を60%削減することになり途方にくれている入院患者の様子が映されていた。津久井弁護士が大阪西成の姥捨て山事件(病院が患者を公園に捨てる事件)を取り上げ政府のこの対応を批判していたが、政府がドンドン、国民の社会保障を切り捨て、「障害者自立支援法」「ホワイトカラー・エグゼンプション」(エグゼンプションは、免税とか免除といった感覚的には良いイメージの言葉)といった文言で国民を誤魔化して、国民生活を破滅に向かわせているのに、そして、憲法を改正して国民を国の奴隷にしようとしているのに、国民はその政党を支持し投票しているのである。
今でも、教育基本法の改正により地方自治体が「訓練」を住民に実施することになり、勤労の義務でせっせと働いて生活費を稼いでいる国民に休暇を取って消防訓練に参加させられるようになった。自民党の新憲法草案が可決されると国民は参加を義務付けられ、国民は毎週でも国防訓練に参加しなければならなくなるのです。
新憲法は国民に「国防の義務」を与えていますから、当然「徴兵制」の復活です。
軍隊は新憲法草案が成立すると憲法から完全に独立し(軍隊に関することは全て『法律で定める』ことになるので)憲法の歯止めは全くなくなり、新憲法に盛り込む「軍事裁判所」で『敵前逃亡者』(戦争はイヤだという者)を銃殺刑にすることが出来るようになります。
自民党改正意見の中には、自民党のボスの発言や「女性は産む機械」発言のように「家庭での男女同権は見直すべき」とあり、女性は奴隷どころか「機械」と看做されることになるのですが、その政党に投票する女性がいる。
本当に信じられない。これは政府の愚民化政策の成果です。
ほんと、言いたいことが一杯あって纏まらない。
「天木直人のブログ」にいいことが載っていたので引用して今日はここまでとします。
「天木直人のブログ~12月8日」http://www.amakiblog.com/archives/2007/12/08/
「国家はいらない」という本
たとえばこの一年に限ってみてもいい。政府は国民の生活のために一体どんな施策を講じてくれたと言うのか。
政権を放り出した安倍前首相が再び議員復活を宣言したという。
防衛疑惑は何も明らかにされないまま終わりそうだ。テロ特措法をめぐる大騒動はいつまでたっても進展しない。膨大な時間の無駄だ。
本来なら終盤国会の緊張した時期である。
それにもかかわらず用もないのに明らかな政争目的で大挙して訪中する民主党の暴挙を誰もおかしいと声をあげない。あれほど改革、改革と叫んでいたのに、行革を進めようとする渡辺行革大臣が孤立している。自民党はおろか、世論もマスコミも渡辺大臣を頑張れと応援する風でもない。
たまたま本屋で目にした「国家はいらない」(洋泉社)という本を買い求めて読了した。そしてこれは今の日本国民にとって必読の書であると思った。
日本の混迷の原因は、実は国家の機能不全、あるいは、不適切、不必要な干渉の結果もたらされたものである事がわかるのだ。
著者の蔵研也という40過ぎの学者について私は何も知らない。しかしそこに書かれている内容は、常日頃から私が考えている事を見事に表現してくれている。
国家なんかいらないと言う事である。
いや、より正確に言えば国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事である。
彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識である。
「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである。
勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある。
彼は面白いエピソードを引用しながら、「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している。
すなわちこういう事である。
街で見かける募金活動の多くは許可を取ることなく活動してその募金を私物化している。いわゆる詐欺である。それにもかかわらず、募金をする人々は多い。
この事が示しているのは、人々の心には他人の事を思いやる、あるいは社会全体のために何かをしたい、しなければならないという意識があるのだ。「公益」への希求が誰の心の中にもそれなりにあるのだ。その心があるからこそ、「公益性がある」と言われれば仕方がないと思って協力し、我慢をするのだ。
しかしこの「公益性」という言葉ほど曖昧なものはないと蔵氏は言う。そしてあまりにも多くの既得権益者が自分の都合の良いようにこの「公益」という言葉を持ち出し、結果として…一般国民の生活を搾取する事になっていると蔵氏はいう。
その典型が政治家や官僚やそれにつながる多くの公益法人、公益事業、公益法人とそこに働く既得権益者なのである。
この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。
世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。
だから「国家はいらない」と言うのだ。
我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。
現実に何が行われているか、それを詳しく正確に知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である。
「天木直人のブログ~12月10日」http://www.amakiblog.com/archives/2007/12/10/
増税を許してはいけない
本日発売の月刊文芸春秋に、元大蔵省(財務省)官僚の高橋洋一(現内閣参事官)という人物が、「大増税キャンペーンに騙されるな」という論文を寄稿している。
これは国民の必読の論文であると思ってこのブログでとりあげることとした。
その論文の主張は一言で言えばこうだ。
膨大な赤字を抱えた日本の財政を立て直すには増税止む無しという風潮が政府からしきりに流される。
善良な国民は、そしてある程度生活にゆとりのある国民は、日本を救うためにはそれも仕方がない、などと思い始めている。
しかしその前に真実を知らなければならない。
本当に増税は不可避な状況なのか。
増税しなければ年金も社会保障も医療保険もなにもかも立ち行かなくなるのか。
決してそうではない。
政府の説明の裏には、財政均衡主義(極端に言えば財政さえ立ち直れば国民経済が苦しくなって構わないという考え方)を最優先する大蔵(財務)官僚に主導された国民搾取の政策がある。
政府にはまだまだ国民から集めた膨大な余剰資金がある。
それを吐き出させるまでは安易な増税を許してはいけない、こういう主張である。
もっとも、私は高橋氏が文春に寄稿した動機の不純さを疑っている。
彼は自ら認めているように小泉・竹中「構造改革」に協力して財務省を離れ、今は政府内部の改革派(上げ潮派)と増税派(与謝野、谷垣派)の政争の一方に与している政治任用の官僚に過ぎない。しかも小泉・竹中改革は偽物だ。本当の改革には手をつけず、米国金融資本に日本経済を売り渡すことを改革と偽った小泉・竹中のブレーンである。
しかも小泉一派の中川秀直などが盛んに増税反対を唱えているが、それは決して国民生活をおもんばかっての増税反対ではない。選挙目当ての一時的反対である。要するに現在政府内部で行われている増税反対、賛成論議は、政治家・官僚の権限保持のための論議であり、保持した権限の奪い合いの内輪もめに過ぎないのだ。
しかしその事を十分認識した上で高橋氏の論文を読めばいいのである。
元大蔵(財務)官僚が明らかにする増税の実態を知る事は国民にとって有益である。
国民はこれを読んで目覚め、政治家や官僚に抵抗していかなければならない。
高橋論文で私が注目した主要点はたとえば次の通りである。
まず高橋氏は「増税ありき」の根拠になっている財政諮問委員会の増税試案の嘘を暴いている。
この試案は民間有識者の増税試案という形になっているが、実際は財務官僚がすべて原案をつくり諮問会議がそれを追認するだけである。
しかもその財務省試案は都合のいい数字ばかりを並べたて増税止む無しという結論を誘導しているのだ。
一例をあげれば、なぜ歳出の増加が不可避であるのかという説明のところで、公務員の人件費増や公共事業費の増を当然のごとく盛り込み、本来行われるべき無駄な歳出の削減努力が一切なされていないという。安易な歳出の増加を増税で手っ取り早く賄うという事である。
次に、財政赤字を強調する一方で、実は膨大な政府資金の余剰があるという事実である。
この事については、最近では「埋蔵金の有無」という世俗的な問題にすりかえられている。
しかし埋蔵金などではなく、れっきとした政府予算の余剰金なのである。
すなわち各省が所管しているおびただしい特別会計の中に、一般会計の規模をはるかに超えた余剰金、積立金がある。
その原資は様々な形で国民から吸い上げた金なのである。
たとえば財務省は為替変動に対応する(為替介入)資金として16兆円の積立金持っている。外国為替資金特別会計である。
国交省は自賠責保険特別会計を持っている。保険料を取りすぎて資産超過になっているという。国交省はまた道路特別会計を持っていて、その資金は余っている。それを使って無駄な道路を作ったりしている。これら特別会計はそれぞれの省庁が管理する既得権になっている。だからそれぞれの省庁は決して手放そうとしない。各省の隠し財源になっているのである。
赤字財政に苦しんでいるはずの国家財政にもかかわらず、日本政府は300兆円もの金融資産をほしいままに動かしている。
日本の名目GDPは500兆円というからその約6割である。
この比率は先進国の中でもダントツに大きく、たとえば米国の約10倍であるという。
日本政府は世界一金を持っているのだ。
日本の官僚は世界一大きな資金を動かす権限を持っているのだ。
それにもかかわらず、その予算を国民生活の為に適切に使っていない。
国民に還元していない。
しかもこの事実が最近までほとんど議論されないまま隠されてきたのである。
この現実を国民が少しでも知ったなら、金が足りないからと言って当然のごとく増税を行う、そんな暴政を認めるわけにはいかない事がわかる。
増税はビタ一文許してはいけないのである。…引用終り
無風注:内容についてのコメントは控えるが、今の「ディベートにならないブロガー達」に見習って欲しいのは、天木氏が高橋氏の「動機の不純さ」を充分理解したうえで取り上げている、その姿勢である。
例えば、「高橋氏は○○という意図(ウラ・魂胆)があって書いているので、そんな人の意見が聞けるか!」(俺はわかっているんだぞ)としたり「彼は左翼思想の持ち主だから」といってその人の意見を嘲笑的に全否定するブログを書く人は、この天木氏の「考え方」を見習って欲しい、のである。