無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

まとめ…愚民・奴隷・家畜と化す日本国民3

2007年12月07日 | Weblog
「まとめ」が纏めでなくなり、今まで言ってきたことの繰り返し掲載となっていて、タイトルの主旨も満たしていないが、「まとめ」も3回目に入ってしまった。

政府の「愚民化政策」については、色々なブログが警告を発している。

それらを紹介する前に少々…、私自身が経験したことだが、「エリート」と呼ばれるそのソサイアティの中で暮らし、エリート達と接していると、外の同じような組織・団体に入ったとき、その中の人間の言動全てが“愚か”に見えてしまう感覚に捉われる。

昔の学生の♪栄華の巷、低くみて…♪といった孤高の精神とはまた違った「エリート意識」(優越意識・差別意識)が自然と身に付いてしまっていた。

東大出が多い高級官僚には、そういった意識が蔓延しているのではないか?
「民間人」という言葉が公官庁の中で盛んに出てくるそうだが、これは、エリートが、われわれ一般庶民を差別している表現である。

この無意識に近い優越意識が、三浦朱門(作家)の次のような考えと繋がる。

「被支配層にはほどほどの教育を施しておけばよい。その上で、優秀な支配層が被支配層を導いていけばよい。」

階級制度や絶対王政を説いたホッブズを支持する「国家の品格」の著者:藤原正彦氏も、この三浦朱門同様、優秀な支配者による国家の安定や、安全、発展、を説き、前首相の政策・行動理論となりました。

(その『国家の品格』批判から少し引用)
いったい、どんな社会を理想だというのでしょう?
国家の安定や、安全、発展のために、個人の自由を失った社会でしょうか?
著者は、自由の価値まで否定していますが。たとえば、職業選択の自由はどうでしょう?政治家の子どもは、政治家。豆腐屋の子どもは、豆腐屋。こんな国に住むのは、幸せでしょうか?
どうやら、著者が望む国家というのは、『国家の品格』のために、個人の幸福を犠牲にした国のようです。…引用終り

“厳し過ぎるなんとかして”と嘆願に来た庶民を処刑し、その後“治安が良くなりました。ありがとう御座います。”と御礼に来た庶民を処罰した商鞅(しょうおう)。

正に、上記お二人の考えている社会は、この商鞅の様に、国民が御政道を批判すると「一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん」と処刑し、国民が支配者を褒めると「庶民の分際で、御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、畏れ多い“おこない”だ」と処罰する、要するに国民(愚民)が政府(優秀な支配者)を批評する(いい・悪いを口に出す)こと自体を許さない社会、国民が素直に国の言うとおりに動く社会、ということです。

秦の始皇帝は「焚書坑儒」(460名の儒者を生き埋めにして処刑、等)で有名ですが、隣組制度による連座制・密告制が布かれ、支配者の気分一つで理不尽に殺される世の中では、「下手なことは言えない」「見ざる・言わざる・聞かざる」「長いものにはまかれろ」といった「ものいえば唇寒し」どころではない雁字搦めの窮屈な身動き出来ない国民生活状態を作り出す。

某国の“将軍様”は、検問所で「身分証明書を見せなさい」といわれその検問員がすぐに“将軍様”だと気が付いて「申し訳ありません」と土下座して平謝りに謝ったところ、“職務熱心”として“将軍様”より自分のしていた時計を与えられた。
別の場面で、検問所で“将軍様”に同じように「身分証明書を見せなさい」といった検問員を“許せん!”と処刑して(殺して)しまった。

こういった国家体制では国民は恐れおののき、権力者への絶対服従が行なわれる。
権力者による恐怖政治である。

秦を滅ぼして漢の始祖となった劉邦はこの雁字搦めの法(どんなことで処刑されるか分からない窮屈な状態)を撤廃し「法三章」にした為、民衆から歓迎され支持されたのです。

まさに民主主義の「法」についての考え方(下記引用文)の良い例といえる。

刑法というのは、国家権力が身体的拘束を伴うような強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するもの。
取り締まる範囲を明らかにすることで、市民の行動の自由を保障している。

つまり、刑法で規定された犯罪類型に当たる行為をしなければ、逮捕されたり、起訴されたりすることはない

ところが、最近の日本では、権力者による「悪法の乱立」(強行採決)により、内容の分からない(「おおむね」等、適用範囲の分からない)法律が作られ、国民は何で逮捕され牢に繋がれるのか分からない不安な状態に置かれている。

まだ適用されない国民投票法で平和講演の後援を断る自治体が出る、等、曖昧な法とそれによる刑罰規定は、国民を愚民から国家の奴隷に変え、独裁社会成立後は人間的感情を出せない家畜となっていく。

   「民主主義」にとって最も大切な装置は「表現の自由」

   「表現の自由」にとって最大の脅威は「萎縮的効果」

   「萎縮的効果」によって脆く崩れるのが「民主主義」

上記は津久井進の弁護士ノートより、引用させてもらったもの。

*サウンドデモでの権力者の弾圧…道交法違反で逮捕

*反戦ビラを郵便受けに投函したビラ配り者の逮捕・拘留…住宅不法侵入罪

*正規に届け出たデモ行進のデモの人数より多い警察隊の警備

*平和集会の会場に入る人達を私服警官が入り口で一人ひとりチェックし写真をとる。

*自衛隊によるデモ・集会の監視・報告

これらは、国民に萎縮効果を与えるに充分である。

ナチス時代の牧師さんの言葉をもう一度…。

ナチスドイツ時代のドイツの牧師さん(マルチン・ニーメラー氏)の回顧

  ナチスが共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが
  自分は共産主義者でなかったので 何の行動も起こさなかった

  その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが
  自分は社会主義者ではないので 何の抗議もしなかった

  それからナチスは学生 新聞 ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
  そのたびに私の不安は増大した が それでも私は行動に出なかった

  ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった
  だから行動に立ち上がった

  が その時はすべてが あまりにも遅かった


貴方も、自分に関係ないと傍観していると、この牧師さんの回顧と同じ思いをすることになるのです。

書いていると、あっ!このことも書かなくては、あのことも…、と思いつき、考えがまとまらない。それほど今の日本国は「悪いこと・改めなければならないこと・これ以上悪くなるのを止めなければいけないこと」が多過ぎる。

今日は、下記のブログを引用して筆をおく。

きまぐれな日々~9月27日 http://caprice.blog63.fc2.com/blog-date-20070927.html


福田内閣支持率50%超に見る日本人の知性の劣化

あのどうしようもない安倍内閣が先月末に内閣改造を行った時、内閣の支持率が10%ほど上がった。その2週間後に崩壊した内閣の支持率が、である。

だから、福田内閣の支持率は50%くらいはいくだろうと思っていた。しかし、現実に読売新聞で57.5%、共同通信で57.8%、朝日新聞で53%という数字を見せつけられると、気が滅入るものがある。

昔から、どんな内閣であっても、発足当初は支持率が高めに出るものではある。だが、小泉純一郎内閣以来、その傾向が異常になってしまっている。
国民の批判能力が落ちている、というより国民の知性が劣化していると思う。
誤解を恐れずにいえば、「B層」が国民全体に占める割合が、異様に増大しているのだ。
そして、内閣発足当初の支持率が、昔ではあり得なかったようなはね上がり方を示すようになった。

私は、コアな自民党支持者に対しては、そんなに非難するつもりはない。十人十色という言葉があるように、人の意見は皆違っていて当たり前だ。

しかし、自分の考えがなく簡単に流されてしまう人たちに対しては、知的訓練が欠けていると非難したい。
参院選前の安倍内閣末期の支持率は20%台、安倍改造内閣の支持率は30%台、福田内閣発足直後の支持率は50%台だが、最悪は安倍内閣改造で内閣不支持から支持に戻った10%であって、これが「ヘビーなB層」、福田内閣発足で内閣支持に戻った20%は「ライトなB層」に相当するだろう。

こういう「B層」の話を持ち出すと、愚民思想だといって非難する向きがあるが、実際にファシズムを生み出すのはこうした「B層」であり、私はこれに対する批判が現状では弱すぎると思う。

政治家は民度を映す鏡だとはよく言われることだが、安倍晋三などという、冷静に考えればどう考えても無能であり、その器でない人間が総理大臣になるのを許したということは、日本人の知性の劣化は深刻だと考えざるを得ない。

自民党には、かつて「三角大福中」がしのぎを削った時代があった。この5人に、世襲政治家は一人もいない。これに対し、昨年、ポストコイズミ争いをすると報じられた「麻垣康三」は全員が世襲議員である。

企業は、経営を二代目、三代目に任せるようになると、没落していくことが多い。自民党も同様だと思うのだが、救いがないと思うのは、そんな自民党政権を国民が支持することだ。

私は、ここまで国民の知性が劣化したのは、国民が「考える訓練」を十分にしなくなったからではないかと思う。日本の学校教育は、70年代がもっとも内容が難解だったそうだ。
70年代というのは、自民党の支持率が極小値をとった時代である。
当時のカリキュラムは「詰め込み教育」だとして批判されたが、私は人間が「考える力」を身につけるためには、子供時代にはある程度知識を詰め込むことも必要だと思う。
たとえば、政治問題や経済問題については、いろいろな立場での考え方があることを知った上で、どういう解が最適かという自分の意見にたどり着くのではないだろうか。

三浦朱門という作家は「被支配層にはほどほどの教育を施しておけばよい、その上で、優秀な支配層が被支配層を導いていけばよい」という思想を持っている。
「私の妻(曽野綾子)は二次方程式が解けなくとも、日常生活に不便はなかった」、「これからはかけ算の九九を言えなくて中学を卒業する子も出るだろう。すべての生徒がある程度のレベルをマスターできると思うのは錯覚だし、マスターさせようとするのも愚かしい」などというのが三浦の発言である。

70年代、国民の政府批判に業を煮やした政府(文部省)は「ゆとり教育」への転換を行ったのだが、その背景には三浦のような思想があったと考えるべきではないだろうか。
つまり、国民を支配しやすくするために、国民の教育水準を下げようという考え方である。
そして、少数の者には、被支配者を支配する術を叩き込もうというのだ。

痛恨事だったと思うのは「ゆとり教育」というのが、一見、日教組やリベラルの人たちに受け入れられやすい政策であったために、抵抗なく広がっていったことだ。
その結果、日本はいまや先進国の中でもっとも子供たちが勉強をしない国になってしまった。
これではダメだ。
十分な知識という土台があって初めて「考える力」が身につくのではなかろうか。

よく「グローバル・スタンダード」がどうのというのだが、この言葉に内在する欺瞞性はとりあえず措くとして、支配者が国民を支配しやすくするためだけなら、愚民化政策も(支配者にとっては)有効なのだろうが、それでは国際的な競争力を失ってしまう。
安倍前政権の「教育カイカク」のごときは、国家主義の強制であって論外だが、「ゆとり教育」は改めなければならないと思う。
すべての国民が、一定以上の教育水準に達している必要があると私は考えるのだ。…以下略、引用終り