Que ma vie est belle!

私とは、美しいもの、美味しいもの、楽しいものの集合体。

心に残るオペラ-シモン・ボッカネグラ by ドミンゴ@ロイヤルオペラハウス、ロンドン

2010-06-30 00:30:00 | オペラ

ドミンゴがバリトンに戻って「シモン・ボッカネグラ」を歌う、というのでロイヤルオペラハウスに出向いた。

自分でお金を払えるようになった時には、既にドミンゴ、カレーラス、今は亡きパバロッティの「三大テノール」はマイクを使って広大な野外ホールで商業コンサートを行う人たち、というイメージがあって、彼らのコンサートに出かけよう、という気持ちにはならなかったが、バリトン復活(歳のせいで高音が出なくなっているのか?)だし、大腸がんの手術を受けて、これからどのくらい歌えるのか分からないし、「ダメもと」でとりあえず出かけた。

歌手の全体のレベルがバランスよく高かったように思う。声量的にも、声質としてもアドルノ役のジョセフ・カレヤは良かった。また、バスの特権?フェルッチオ・フルラネットも魅力的な声だった。ソプラノのマリーナ・ポプラフスカヤは、最初少し?だったけれど、後ろへ行くほど良くなっていった印象。オーケストラ指揮は、今回もパパーノ。素晴らしい!こんなに早く彼のヴェルディが聴けるとは!

そして、勿論ドミンゴ。年齢か、大腸がんの手術など健康上の理由か、声量は若い人には及ばないけれど、とても美しい、魅力的な声。今回は少々奮発して、前から3列目、中央に居たからか、彼の表情を具に観察することができた。勝手な想像なのだけれど、プロローグは少し辛そうに見えたけれど、その後は、服装や化粧(25年後なので白髪-自前?)、端正な顔立ちも相俟って、素敵度が高かった。

勿論、年齢か健康か、いっぱいいっぱいで歌っている、という印象はぬぐえなかったが、その姿が、Gustavoの指揮を見るときのように、自分もここまで精一杯生きていると言えるか?と思わず自問させられるような、鬼気迫るものがあった。そんな風に感じていたからか、最後、拍手を受ける場面で、ドミンゴが少し涙ぐんでいるように見えなくもなかった。

観客に詮索をさせる余地を少しも与えず、飄々と、素晴らしい成果を出すのが一流のプロなのでは?とも思うが、いや、こういう鬼気迫るオペラというのもありかもしれない。今日のオペラのことは、何時までも心に残る予感がする。


庄司紗矢香、プロコVn協奏曲第2番@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-06-27 09:21:00 | コンサート

24日に引き続きテミルカーノフ指揮、フィルハーモニア・オーケストラのチャイコフスキー&プロコフィエフシリーズ。

前半はチャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、庄司紗矢香のヴァイオリンで、プロコフィエフのVn協奏曲第2番。庄司のヴァイオリンを生で聴くのは初めて。庄司はとても華奢で、体格的にはまるで子供のよう。以前、バービカンで彼女を見かけた時の印象より更に細く、小さい。ヴィジュアルのイメージは昔の五嶋みどりとサラ・チャンを足して2で割った印象。和物の染め(少し緑がかったアクアマリン色)のようなドレスを着ていたことも、そんな風に感じた理由かもしれない。

演奏は、まずヴァイオリンが大きすぎるのではないか、と思ったこと。分数(7/8くらい)の良いものがあれば、そのほうが体に合っているのではないか、と。また遥か昔、神奈川県立音楽堂でキーシンがショパンのpfソナタ第3番を弾いたときのことが脳裏に蘇った-テクニックではない何かがもう少しあると良い、と。プロコでは難しいのか、あるいはこちらがそこを聴き取りきれないのか?

後半はチャイコの交響曲第4番。ひどく大雑把に言ってしまえば、24日のコピーのような演奏-最初のテンポは通常よりゆっくりで、最後は極限まで速く弾く、という意味で。29日は交響曲第6番を弾くらしい。これは最後「じゃじゃじゃじゃん」とは終われないので、どういう風に創ってくるのか興味がある(が、ドミンゴ初日なので聴けない、残念)。

帰り掛け、24日に声を掛けられなかったので、クラリネット奏者に「素晴らしい演奏をありがとうございます」と声を掛けた。最初訝しげだったが「24日のチャイコフスキーの5番が特に素晴らしかった」と言ったら、思うところがあったのか、嬉しそうに微笑んでいた。


卵が先か鶏が先か-ヴィットリオ・グリゴーロ@ロイヤルオペラハウス、ロンドン

2010-06-26 00:00:00 | オペラ

くだらない話だと最初から分かっているのに、行ってしまう「オペラ」。今日も呆れてものも言えないマスネの「マノン」。絶世の美女らしいけれど、頭は足りない、倫理観もない、経験からも学ばない、どーしようもないお嬢ちゃんの物語。

先日ボストリッジの伴奏をしたパパーノが指揮をし、マノンをネトレプコが歌う、ということで出かけたが、いつもの通りダークホースが(すみません、私が無知なだけなのですが)。

それがChevalier des Grieuxを演じたヴィットリオ・グリゴーロ。テノールだけれど、絞りだすような苦しい声質ではなく、明るくおおらかな声。声量も驚くほどある。ウィグモアホールで本気で歌われたら、間違いなくこちらが参ってしまうような声。

しかし、聴いているうちにこの人の声はクラシックとはちょっと違うのでは?という疑問が沸いてきた。何がクラシックとそれ以外を分けるのか、分けるものなんてないのかもしれない。実際エリザベート王妃国際音楽コンクールの声楽部門でもオペレッタだったかミュージカルだったかの曲を歌った人もいるのだから。ただ、何かがそんな風に感じさせたのだ。

家に帰ってググって見ると、この人はウェストサイドストーリーを歌ってクラシック外の世界でも人気が高いと言うことを知った。なるほど。声の質がミュージカルへの道へ進ませたのか、ミュージカルを歌うことでこういう声質あるいは歌唱法になるのか?鶏と卵、どちらが先なのだろう?

パパーノは、伴奏より指揮が好きだ。小さな体が大きく見え、腕が生き生きと滑らかに動く様子は美しかった。是非、彼の振るヴェルディを聴いてみたい!なんて、そんなことを考えていたからか、帰途の頭の中はラ・トラヴィアータの「プロヴァンスの海と陸」になってしまった。

一方、ネトレプコ。産後で太ってしまったのか?この体型で16歳はないだろう(実際今年39歳になるのだから仕方ないが)。男を手玉にとって、転落させてゆく、「さげまん」には向いているのかもしれないが、絶世の美女の16歳、といったら、もう少し線の細い感じを期待してしまうので、特に第一幕のあたりは違和感にさいなまれた。

後半はだんだん役柄とネトレプコのギャップが小さくはなってきたけれど、それでも、やっぱり体格が良すぎる。カルメンとかならば良いのだろうけれど。

「マノン」の脚本なのか、この演出なのか分からないが、流石フランスオペラ。基本線は悲劇なのだが、悲劇悲劇していなくて、笑える場面が多々ちりばめられている。ドラマチック悲劇のイタリアオペラや深刻悲劇のドイツオペラも良いけれど、週末の始まりにはこのくらい笑える悲劇が丁度良い。


マツーエフ&クラリネットに花束を@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-06-24 23:30:00 | コンサート

テミルカーノフ指揮、フィルハーモニア・オーケストラでチャイコフスキーのエフネギー・オネーギンからポロネーズ、プロコフィエフのPf協奏曲第3番、チャイコフスキーの交響曲第5番。

プロコのPf協奏曲第3番はマツーエフのピアノ。マツーエフの技術力、運動神経のよさが遺憾なく発揮された。良い意味で、まるで機械のように正確に打鍵する。ここまで正確ならば、これも美、芸術と呼んで差し支えないはずだ。第1楽章と第3楽章はそう言う意味で大満足。

一方、いまひとつ物足りなかったのは第2楽章。特にpで歌う第一変奏が。音はしっかり小さくなっているし、本人が歌おうとしているのも分かるのだけれど、何かが足りない。スパイスの入っていない料理のようだ(イギリスだから?)。マツーエフ、歌が歌えるようになったら、鬼に金棒では?

後半はチャイコの交響曲第5番。あまりに有名な曲だが、今日はちょっと味付けが違った。テミルカーノフのテンポ設定が、かなり独特なのである。最初のクラリネットはかなりゆっくり目(クラリネットの首席奏者、相当上手い!)で、改めてこのメロディの美しさを認識させてもらった。一方、最後(第4楽章)はこれ以上はないほど速かった。

第2楽章のホルンは、まあ無難にこなしていた。ホルンは演奏自体が難しいから、無難にこなせばブラボーなのかもしれないが、感動するまでには至らず。

テミルカーノフのテンポと強弱のつけ方は、「加速度的」。ぐぐっと、後ろに向かって加速度を掛けて速くしたり、ffにしたり。ただ、その独特のテンポ感の上に、指揮が指揮棒を使わないため、打点が見難いのか、テンポを変更するところが分かりづらいのか、テンポ的にオーケストラが多少崩壊している感もあった。面白かったけれど、ちょっとリハーサルを覗いている感も。もう少し完成度が上がっていたらスタンディングオベーションしても良かったけれど。

クラリネットの活躍が素晴らしかったと思う。指揮者よ、もう少しクラリネットを褒めてあげても罰は当たらなかったと思うよ-冒頭、あそこまでゆっくりとしたテンポで吹かせたのだから。。。

とりあえず、私からはマツーエフとクラリネット奏者に花束を!


さよならはしたけれど-ポリーニ@バービカン、ロンドン

2010-06-21 02:30:00 | コンサート

演奏会後半はポリーニのピアノでブラームスPf協奏曲第1番。ポリーニはこの間のロイヤルフェスティバルホールでの演奏を聴いて「さよなら」をしたところなのだが、リタイアが相当近い予感がするので、聞き逃すのは惜しいと、出かけた。

直前入手のチケットは前から3列目。ポリーニの指が良く見える。と、今回は、何とポリーニの鼻息と鼻歌の特典付きであった。

第一楽章は、オクターブで音をとる部分の多い、見ているだけで手がつりそうな楽章。ポリーニもいまひとつ精彩に欠けた演奏だったのではないか。若かった時はこんなではなかったのだろうな。一方、アルペジオはとても美しい。

第二楽章のアダージョは美しい。ポリーニもノッてきたのか、余裕が出てきたのか、鼻歌が混じる。第三楽章も、第二楽章からの良い雰囲気を引き継いで、鼻歌交じりの演奏だ。

まだ70歳にならないのに、相当老けた印象のポリーニ。呼吸音(鼻息)がずっと聞こえ、少々苦しそうなのだ。医師でない私が診断を下すことは出来ないが、COPDではないかと推察する。どんな天才も病気には勝てない。どんな演奏人生の幕引きを考えているのか、と思わず考えてしまう。

この曲を聴きながら、先の現代曲は勘弁して欲しいけれど、今更こんな感じの曲を「作曲しました!」と持ってこられても、やっぱりダメな気がした。ちなみに、この曲も初演のときは大変に不評だったとか。

ということは、先の曲も100年くらいすると、21世紀初頭の名曲、になるのだろうか。

いや、ならないほうに100万円くらいなら賭けてもいいな。


音楽とは何か?@バービカン、ロンドン

2010-06-21 01:30:00 | コンサート

ポリーニの演奏目当てだったのだが、その前に書きたいことが沢山あるので、2つに分割。プログラムの前半は、

Bach作曲、Webern編曲、Fugue (Ricercar) in Six Voices from the Musical Offering BWV 1079

Helmut Lachenmann作曲 Double (Grido II)

まずはBach/Webern。Webernはこの曲について「My instrumentation attempts to reveal the [Ricercar's] motivic coherence」と言っている。直訳すれば「楽器使いはこの曲のモチーフの一貫性を明らかにするための試みである」といったところか。

モチーフは一貫しているかもしれないが、そのモチーフが複雑に絡み合った曲。ちょっと複雑なレポートを理解し易くしようと、蛍光ペン(=楽器)で色分けしたところが、結果として、見た目汚く余計分かり難くなってしまった、という印象を持ったのは私だけだろうか。

もっとも、金管などがしょぼい音を出したりしていたので、蛍光ペンが曲がったり、他の色と混ざって汚くなったりしていたところが無きにしも非ず、ではあるが。

そして、何より2曲目。思わず「音楽とは何か?」を考えた。まるでSF映画の効果音のような音の連なり、ドアのきしむ音、なぜか分からないけれど、ヴァイオリンの駒の外(下?)側を弓で弾いたり、極めつけは糸巻きのところを弓で弾く真似をしたり。何だ、それ?これは、「音楽」なのか?

正直、外に出たかった。横に人が何人も居なければ。最後は聴いているのも辛くなって、でも、耳をふさぐわけにもゆかず、下を向いてなるべく脳の中に音が入ってこないように努めた。

現代の作曲家に残されたフィールド、可能性、とはこのような曲しかないのだろうか?だからクラシック音楽は衰退の一途を辿るのか?昔、バッハが、モーツァルトが、ベートーベンが、マーラーが新曲を出すような、その初演に立ち会うような興奮を味わうことのない我々の世代において、クラシック音楽の復活はありえないのだろうか。

作曲者と話が出来たので、「演奏会の帰り道、私はあなたの曲を思い出せないと思う」といったら、「モーツァルトだって1度じゃ覚えられないでしょ?10回くらい聴いたら、大丈夫」と言われた。いや、モーツァルト、全部は無理だけど、サビくらい覚えられる。それに、あなたの曲、10回聴ける忍耐力、私にはない。

って、本人には言わないけれど。


御印-Quatuor Ebene@ウィグモアホール、ロンドン

2010-06-20 17:30:00 | コンサート

日曜日の朝、ウィグモアホールにて、Quatuor Ebeneによるモーツァルトのディベルティメント K136とバルトークの弦楽四重奏曲第2番Op.17を聴いた。

このところピアノモードだったので、弦の音に慣れるのに数分かかった。第一楽章、第二楽章は比較的普通の演奏。ヴィオラがとても良い音で鳴っていた。彼が裏では曲作りをリードするのだろうか?音感もよさそうに見受けられた。

で、第三楽章。もう、笑うしかないのだろうか。これは、もうモーツァルトではない、というような速さ。でも、きっと後ろでブラボーした人たちには、

「待ってました!これぞQuatuor Ebene!」

なのだろう。まさに、御印。ここを聴けばたちどころに誰が演奏しているかがわかる。モーツァルト作曲、Quatuor Ebene編曲、と言えなくもない。

バルトークは、この四重奏団向きで好きなのだが、今日はちょっとモーツァルトの第三楽章が尾を引いてしまった。また、モーツァルトの時のほうが、ヴィオラの美しさが際立っていたような気がした。

£12で、シェリー付き、とあればかなりお得な演奏会だったのではないだろうか。


3年来の恋人と新しい恋人候補@スタインウェイ、ロンドン

2010-06-19 19:00:00 | ロンドン

靴の修理をしてくれる靴屋を見つけたので、大量に靴を持ち込んだ。その帰り、2ブロック手前のスタインウェイに何気なく立ち寄った。

実は、今借りているスタインウェイの購入に、なんとなく気持ちが動いているのだが、100年も昔のスタインウェイを素性も分からぬまま購入してしまって良いのか悩んでいるからである。

とりあえず、新品だと幾らくらいで、どんな感じなのか見せてもらう。やっぱり新品は美しいが、どうも鍵盤の感じが好きになれない。やっぱり、今借りているピアノの鍵盤は象牙なのだろうか?

音も弾かせていただいたピアノのうち、とくに新品はハンブルクスタインウェイらしい、品の良い、というか、私には少々「こもった」音に聴こえ、家のちょっときらきらしすぎるくらいの音とはかなり異なり、違和感がある。

古いピアノを完全にオーバーホールしたピアノも見せていただいた。こちらは象牙鍵盤。ほんの少しキーが浅く軽いような気がするのだが、気のせいだろうか。音も先ほどのスタインウェイに比べると明るい感じがする。古い、とはいえ、完全にオーバーホールしているし、マホガニーだからか、£54,000を超えていた。う~ん、日本で買うことに比べたら安いけれど、やっぱり高い。

難しい。状態は勿論新品のほうが良いに決まっているが、例えて言えば、3年同棲した恋人と新しい、お金持ちの、ハンサムで将来も有望な恋人候補、どちらを選ぶ?といった感じ。前者のことは良く分かっているし、愛してもいる。後者は客観的には素晴らしいけれど、自分との相性など、まだまだ未確定要素は多い。前者への持参金は少なくても大丈夫だが、流石に貴族の家へお嫁にゆくには多額の持参金が必要。これまでの歴史を棒に振って、高い持参金を持って後者に行くか?

ということで相当に悩んでいる。ちなみに、案内してくださった女性は、ピアノが恐ろしく上手(そう)だった。スケールをさっと弾いただけだったが、明らかに素人とは違った。ピアニストなのか?ときいたら、直接は答えなかったけれどピアノが上手いことは否定しなかった。ご主人が指揮者で日本でも振ったとか。また、イタリア人だということが名前から分かったので、友人のイタリア人ピアニストを知っているか、と聞いたら、やはり友人らしい。世界は、特に音楽の世界は狭い。

それにしても、結婚するか?するなら、どちらと?の気分である。


またやってしまった!-エルメス・セール@ロンドン

2010-06-18 14:00:00 | ロンドン

昨夜、何気なく郵便物を整理していたら、

あ、エルメスのセール、明日だ。

という訳で仕事の前に、さっくりセールへ(朝8時半からというのはありがたい)。

最初からブーツ狙いで行った。幅広、甲高の典型的日本人の足である私にエルメスのパンプスは無理。でも、ブーツは5年以上履き続けているものもあるくらい、堅牢で履き心地も良い。

今回は残念ながらロングブーツに気に入ったデザインはなかったが、ショートブーツを2足購入。

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エナメルの靴-おしゃれ用に生まれてきたのだろうけれど、私に所有されたのが運の尽き。あなた達は日常履きよ。御免あそばせ。

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ヒールがかわいいといえばかわいいが、もう少しガッシリのほうが使い勝手は良いかな?

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こちらは、店頭で見ていたときから欲しかった一品。エナメルや複数色のコンビでなければ定価でも欲しいと思っていた素敵なライン。

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こちらもヒールが素敵。どのくらい持つかしら、過酷な私の使用条件で。

無駄遣いしてしまったかしら?-と袋に入れたまま隠して、見ないようにしていたけれど(単なる現実逃避)、こうやって見るとやっぱり美しくて、後悔できない。

少し後悔するくらいのほうがよかったかしら。。。相変わらず意志の弱い私。


愛すべき貴公子(?)-ドミトリー・ホロストフスキー@ウィグモアホール、ロンドン

2010-06-11 23:00:00 | コンサート

拍手が違う-昨日のティル・フェルナーなど、「どれどれ、お若いの、お手並み拝見」な拍手だったのに、今日の拍手は、

熱烈歓迎

と言っている。歌手に疎い私は、来る前にWikiで予習した。最後の一節を「歌唱力も悪くはないが、外見が特に良いからトップスター」と解釈し、危険信号が点っていたのだが、期待してよいのだろうか?

まず、その立ち居振る舞い。この間のフローレスもそうだが、オペラ歌手の、堂々としたことよ。これだけでピアニストよりギャラを50%は高く設定できるような気がする。

果たして-声が、確かに凄い(個人的にはもう少しクリアな声が好きだが)。豊かな音量-豊か過ぎて、このホールでは狭すぎる-ロイヤルオペラハウスくらいないと。ffで歌われるとホールのほぼ中央に居ても、耳がびんびんする(オーケストラではないが、咳が我慢できないならffの間にどうぞ、というくらい)。最前列は鼓膜が破れていないか?この人はオペラを聴きたい人だ。

これならば、このウィグモアホールにしては記録的な高値チケットも止むを得ないのか?人間の体が、これだけの音量を出す、というだけで凄いではないか?ピアニスト、ヴァイオリニスト、指揮者-皆ギャラは相当高いけれど、やっぱり歌手には敵わない。体をどのくらい張って仕事をするか、なのだろうか。

こんなに狭いホールでたった500人を相手に歌ってくれることには感謝したいが、曲目は、ちょっとロシアン・カンツォーネ(チャイコフスキー&ラフマニノフの小品)。彼にとっては母国語だから、日本人ならば、花や荒城の月を歌っているようなものだろうか。それなのに、何をどういう順番で歌うのか覚えていない様子。次曲が始まる前に伴奏者に題名を聞くのはやめよう。

見た目は、確かにWikiにあった通り、プラチナブロンド、日に焼けたような顔色、スタイルも良く、「貴公子」っぽく見えるが、実は、笑うとかなり庶民的。それを決定付けたのが、後半、ラフマニノフの2曲目、V molchan'i nochi tainoi。最後、あまりにも美しい歌声に、皆が本当にため息をついた(ロンドンっ子は素直に反応する)。と、後ろで誰かがくしゃみを!

そのあまりのタイミングのよさに、一瞬皆がたじろいだ瞬間、ホロストフスキーがこらえきれずに吹き出した。勿論、皆つられて、こらえていた笑いをいっせいに小爆発させた。

ホロストフスキー、確かに、見た目は「貴公子」だけれど、良い意味で貴公子(?)だ。ロシアの田舎から、その声を頼りに世界へ羽ばたいた愛すべき貴公子(?)

こういう人の演奏を普通に聴くことができるから、やっぱりロンドンは離れられない。