Que ma vie est belle!

私とは、美しいもの、美味しいもの、楽しいものの集合体。

Homesick in general? - ジョシュア・ベル@ウィグモアホール、ロンドン

2010-04-30 01:30:00 | コンサート

想定内外の出来事で恐ろしく忙しい週の花木、ジョシュア・ベルのコンサートへ行った。このチケット取りも殆どゲーム。先行予約で入手した席が気に入らなかったので、良い席が返却される度に席を替えていった(満席の場合はチケット返却が認められ、返却したチケットが売れれば返金される)。結局、彼の正面、前から6列目、という好位置で演奏を聴くことができた。

モーツァルトのVnソナタK.454、ベートーベンのVnソナタOp.30-2、ラヴェルのVnソナタ、チャイコとサラサーテ。

前半から圧倒的な演奏であった。いや、勿論ちょっとへたった彼らしくない音も散見されたのだけれど、そのフレージングの見事さに、へたった音などどうでも良くなってしまったのだ。おそらく私はへたった音(ピアノならミスタッチ)にひどく気をとられるタイプなのだが、それを超える演奏、とはこういうものなのだろう。

モーツァルトは音符を追うに難しい作曲家ではないと思うのだが、その流れるような、流線型の音楽を形にすることはとても難しい。それを難なくこなすジョシュ。美は細部に宿る、音楽は楽譜に書ききれないところに在る、と感じる。

ベートーベンは、昔自分が習ったソナタも、こうやって弾いてあげればよかったのだと(弾ければね)とても勉強になった。今日この会場に来ているヴァイオリニスト(とその卵)は、おそらく一人残らず、今日家に帰ってこの演奏を真似て弾いてみるに違いない。それをしないのは彼と同等以上の実力/才能があるか(居たら出てきて!)、よほどやる気のないものかのどちらかではないかと思う。

休憩に入ったが、体が動かなくなってしまった。神経細胞が刺激されすぎて体全体不応期に入ってしまった感じ。突飛なのだが、タイタニックで楽団の演奏を聴きながら沈み行く船に運命を任せるなんて絶対いやだ、最後まで救命ボート争奪戦を戦い抜いてやる!と思っていたけれど、ジョシュが演奏してくれるならば、その運命を甘んじて受け入れる側に回ってもいい、と思った。

後半はラヴェル、ジャズっぽい流れ、ピチカートの愉快さ、水が噴水からきらきらと湧き出る感じが目の前に広がる。チャイコフスキーが「懐かしき土地の思い出(瞑想曲)」だったからだけではなく、例えば前半2曲の緩徐楽章にしても、ちょっとホームシックになるような演奏。ジョシュの本質は、NYのアパルトマンやポルシェやモデルのようなお姉さん達ではなく、生まれた土地の素朴で暖かなところにあるのでは?と思ってしまうが、それは聴き手の淡い期待か。

アンコールはショパンのノクターンC♭。ヴァイオリンでもこんな風に弾けるのね。ジョシュにホームシックになった、と言ったら、「Homesick - in general?」と聞かれて、え、in generalなホームシックって何?と「鳩豆」になって間抜け面を晒してしまった私。ホームシックにも種類があるのね、音楽だけでなく勉強になったわ。


フレンドシック-オールソップ指揮、ハッジス(Pf)@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-04-21 23:30:00 | コンサート

マリン・オールソップ指揮、ニコラス・ハッジスのピアノ、ロンドン・フィルハーモニックオーケストラでCharles IvesのThe unanswered question、L. BernsteinのThe age of anxiety: Symphony 2 for Piano and Orchestra、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聴いた。

バーンスタイン。ホームシック、という言葉があるが、この曲を聴きながら「フレンドシック」になっていた。バーンスタインのジャズのような曲が、ジャズ好きの友人と交わした会話を思い出させた。

気の置けない仲間との暖かな雰囲気の中での会話だったのだが、夜中になって、少し皆思考が自分自身の奥底に向かっていたのかもしれない。「人間には誰しも、どんなに近しい人とも共有できない真実があるよね」。友人の苦しげな、深い孤独を表すような表情を思い出す。

ショスタコーヴィッチは有名な交響曲第5番。第3楽章のマーラーからの引用が有名だけれど、第3楽章に限らず、曲全体が、とてもマーラー的な気がする。

オールソップの指揮が素敵だ。第1楽章をはじめ、盛り上がるところの指揮スタイルは、もう少し格好良くなるかな?なんて、どうでも良いことを考えていたが、ドゥダメル同様、こういう指揮を見ると、反省モードに入らざるを得なくなる。ところで、第4楽章、オケは指揮のテンポに、本当に従っていたか??と思う部分があるのだけれど。オールソップに聞いても、本当のことは教えてくれないだろうな。。。?

ハッジスの美しいピアノの音色と、素晴らしいテクニック、LPOの迫力あるオーケストラで、心から楽しむことができた演奏会だった。

何故あなた達は海の向こうにいるの?今すぐ電話で声が聞きたいのに。


カーボンファイバーチェロ=風呂場で歌う歌@キングスプラス、ロンドン

2010-04-18 22:00:00 | コンサート

火山灰の影響でミュンヘンへ行けなくなった。そこで昨日はBBC交響楽団の演奏会へ行き(プロコのPf協奏曲第2番他-でも感想を書く気になれなかった)、今日はWigmore Hallの演奏会も演奏者が来られなくてキャンセルになっていたので、初めてキングスクロスの近くにあるキングスプラスへホールの見学がてら、演奏を聴きに行った。

キングスクロス駅から歩いて5分ほどだが、道程はおしゃれとは言えない(日が落ちたら一人では歩きたくない)。幸い今日は18時半から開演、しかも既にロンドンは20時半頃まで明るいので問題なかった。総合文化施設のようなところに室内楽用のホールがある。また、裏側には運河があり、お茶をするにはなかなか洒落ている。ホールは天井が高く、響きも良い。まだ新しくて綺麗でお薦めできる。

演奏はグリニッジトリオ(ピアノトリオ)でベートーベンの第7番、モーツァルトの第6番、ショスタコの第2番。

まずは奏者が出てきてびっくり。チェリストが抱えてきたのはカーボンファイバー製のチェロだった!ヨーヨー・マも使ったというし、生で聴くとどんななのだろう?とちょっとわくわくした。

評判通り、音量はあるが、音質的には「厚みの無い音」というのだろうか、おそらく倍音が少なく波形が木の楽器に比べてシンプルなのではないかと思うような音だ。また、楽器がまるで缶を鳴らすように響く。別の喩えを用いるなら、風呂場で歌を歌うような感じ。これをまたチェリストが放置するので、そこは休符でしょ?というところも前の音が響きっぱなしなのである(舞台近くで聴いていたから余計に気になったのかもしれないが、弾いている本人は気にならないのだろうか)。

この楽器で練習しても、奏者は上手くならないのではないかと心配になる。歌手は風呂場で歌の練習をしてはいけない(響くので上手くなったと錯覚する)と聞いたことがあるが、この楽器も本当は楽器を鳴らせていないのに、鳴らせたような気持ちになってしまうのではないかと心配だ。

弦楽器奏者は、楽器を他人と共有できないために、楽器の争奪になるのだろう。良い楽器にめぐり合うのも才能の一部だろうか?ヴァイオリニストの楽器は私が所有している楽器と似ていた(良い楽器は、なんというか、見た目もスマートなのだが、彼女のや私の楽器はどうも厚ぼったい感じがする)。彼女にも早く良いパトロンが付いて、良い楽器が与えられますように!

また、譜めくりの人が、ピアニストのニーズに対応できず、前半でクビになってしまった。後半で譜めくりの人用の椅子が下げられたとき(休憩中にやっておけばよいものを!)、会場からは笑いが漏れた。

まだ若いトリオである。できの悪い譜めくり人をどう扱うかとか、演奏中に間違えたり、打ち合わせと違っても変な顔をしない、とか、プロとして(というよりは人前で演奏するとき)の基本的なことも学習中、といった感じ。

前半のベートーベンからブラボーが出ていたが、演奏者の知り合いのようだった。自分達の出来具合は本人達が一番良くわかっているとは思うし、まだ若い奏者達なので、今後の活躍に期待したい。今日はコンサートホール見学費で£16.50だったような気がする。少々高すぎないだろうか?


音楽を生かすも殺すもパーカッション@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-04-17 01:30:00 | コンサート

生まれつきリズム感に恵まれなかった私である。大学時代、友人とコンサートに行き、ラデツキーか何かで手拍子をしたとき、友人から「演歌の合いの手みたい」と言われた。そうとうイケてない手拍子だったに違いない。そんな私の感想であるから怪しいが。。。

今日はフィルハーモニア・オーケストラでR・コルサコフの「ロシアの復活祭」、ショスタコのPf協奏曲第2番、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。

「ロシアの復活祭」は懐かしい。カール・セーガン(今ではこの人の名を聞くこともめっきり少なくなった)「Cosmos」のサントラに入っていた。ショスタコのPf協奏曲第2番-ここの所、複雑系な、生涯最高の協奏曲よ!系を沢山聴いていたので、なんだかとってもシンプルで、ほっとする。

さて、春祭。弦楽器群すらパーカッションのように扱われる。皆がこの変拍子の嵐を体で感じ、もともとバレエ音楽として作曲されたことを思い出して演奏をしなくてはならない。Danse de la terreに入るところ、タムタムのクレッシェンドを直線的にするなんて、ありえない。ここは指数関数的にクレッシェンドしなくちゃ、じゃないの??

そんな感じで、実は第2部に入って、ちょっと演奏に飽きていた。

と、ティンパニの大音量が耳を襲った。すごい、ティンパニが音楽を支えている。いつも、パーカッションとファーストヴァイオリンのお給料が一緒だったら、ヴァイオリニストは一音あたりのお給料が相当安いぞと思っているのだが、こういう役割をするならば、一音あたり少しくらい給料が高くても納得。

今日の演目をグスタボ&セルジオ・ティエンポのコンビに任せたら、リズム感が良く生き生きして楽しいだろうなぁ、と夢の演奏会を頭に描きながら帰宅。


Enrico Dindo - ふたりで半分こ♪@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-04-15 01:30:00 | コンサート

ジャナンドレア・ノセダ指揮、ロンドン・フィルハーモニックオーケストラ、Enrico Dindoのチェロで、ドボルザークのチェロ協奏曲を聴いた。席はチェロの目の前。だって、昔、高校の物理の先生が、学習効率は距離の二乗に反比例する、って仰ったのだもの!

流石、先生、確かにこの位置、まるでDindoの発するチェロの音すべてを吸収できるかのよう。もし会場全体への響きが足りなかったとしたら、それは私のせいです!とDindoに代わって言い訳してあげたくなる。

昔、アニメの主題歌にあった「ふたりで半分こ」を思い出す。嬉しいことも、ドキドキも、悲しいことも2人でいれば共有できる、と。まさにこの席、Dindoと美しい音楽も共有できれば、第一楽章の12番に入る前(手元のスコアに小節数が書いてない)でとちって危うく音楽が止まりそう??のドキドキも半分こ。

そんなドキドキはあったけれど、すぐに持ち直して(流石プロ!)美しい音楽を最後まで聴かせてくれた。£30もしない安い席で、今日の演奏会を一番楽しんだのは私?な気分だ。

現役のチェリストでは、ヨーヨー・マの演奏をこういう席で一度聴いてみたいものである。一体どんな気分になるのだろう?


フレディ・ケンプ-聴衆に愛された訳@ロイヤルフィルハーモニーホール、ロンドン

2010-04-14 01:30:00 | コンサート

アンドリュー・リットン指揮、Pfフレディ・ケンプ、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラでチャイコフスキーのPf協奏曲を聴いた。

ケンプはYouTubeで見たときそのままに、極めて長い指を持て余し気味に弾く。長すぎるからミスタッチするんじゃないか、と思うほどだ。また、背丈も相当ありそうで、チャイコフスキーやラフマニノフのPf協奏曲向きの体格である。和音の嵐にも負けそうにない。346小節目からの両手オクターブは圧巻であった。しかし、こんな風に弾かれるピアノは幸せなのか、辛いのか。何度弦を切ったことがあるのか聞いてみたい。少なくとも我が家に居るSteinwayがこの人に弾かれたら5分と持たないだろう。

普段ならば、第1楽章が終わると、あ、この曲は終わった、という感じになってしまうのだが、第3楽章まで楽しく聴かせてもらった。長い指に起因するのかはともかく、多少ミスタッチが気になり、こういうところがコンクールで優勝できなかった理由なのかな(例えロシア人を優勝させたいという力が働いたとしても、言い訳になる)、なんて思った。一方で、ダイナミックな演奏は一般聴衆を惹きつけ、愛される力に結びつくのだろう。

後半はラフマニノフ交響曲第2番。ミーハーといわれようと、第3楽章のメロディは美しいと認めざるを得ない。ラフマニノフの脳内にメロディが自然と浮かんできたのか、あるいは人間が感動するメロディの特徴を知り尽くしていて、その通りに作曲したのか。彼が現代に生きていたら、素晴らしい「NHK大河ドラマ」の主題歌を作曲してくれたに違いない、と確信する。


日曜午後のコンサート@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-04-11 20:30:00 | コンサート

日曜午後のコンサート。ユライ・ヴァルクーア指揮、フィルハーモニー管弦楽団。曲目も親しみやすく、スメタナ「わが祖国」から「モルダウ」、ベートーベンのPf協奏曲第4番、ドボルザークSym No.8。しかし、客の入りは6割程度-しかもA席が相当空いている。今日の演目など、値段設定を下げて、家族コンサートとでも銘打てば、収入総額は変わらないか上がるだろうし、クラシックファンを増やすきっかけにもなって、良いと思うのだけれど。

さて、「モルダウ」。親しみやすい曲でつい聞き流してしまうけれど(私だけ?)、演奏の仕方によっては芸術的に完成度の高い曲にすることも可能なはずだ。何が良い演奏と平凡な演奏を分けるのか-例えばホルンが刻む8分音符。ただ漫然と等間隔に演奏すると、無味乾燥で凡庸に聴こえる。これに微妙な揺らぎが入ると-フルトベングラーのブラームスSym. No.1の冒頭のティンパニのように-名演になるように思うのだけれど。あれはどうしたら出来るのだろう。指揮者の指示か演奏者の勘か?

ベートーベンのPf協奏曲。調も拍子の違うのに、聴く度にブラームスのピアノ四重奏曲第2番の冒頭を思い出してしまう。ごめんなさい、でもちょっと眠くなるような演奏だった。

後半のドボルザーク。これも大変に親しみやすいメロディに満ちている。国が違っても、人間の中にある「望郷の念」がこの曲をポピュラーなものにするのだろうか。あるいは「民謡」というものは、世界共通に「望郷レセプター」を刺激する何かが含まれているのだろうか。日本を思って音楽を作るとしたら、私はどんな曲を創るだろう。

メリハリのある、なかなか良い演奏だった。ホールの残響がもう少しあれば、このメリハリの効果がさらに高まったのではないかと残念。第4楽章のトランペットのファンファーレは、このデッドなホールにも拘らずとても美しい音で響いていた。今日は指揮者にも演奏者にも努力賞をあげよう。

ヨーロッパは、生の芸術に安く触れる機会に満ちている。もし子供が居たら是非ロンドンで育てたい。無料の美術館と安いコンサート。しかも世界のトップともいえるような作品や演奏家も多い。本物の芸術を見て育ったら、芸術家にならずとも子供は物の本質を理解できるようになるに違いない。


指揮者の仕事-ヤニック・ネゼ=セガン@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-04-10 22:30:00 | コンサート

今夜はセガン指揮ロンドンフィルハーモニックオーケストラ(LPO)でヘンデル「王宮の花火の音楽」、プロコフィエフVn協奏曲第1番、ストラヴィンスキーの「花火」そしてベト7、と盛り沢山な演奏会を聴いた。

ヘンデルは大きさといい、少々デッドな音響といい、このホール向きではないと思う。もう少し小さなホールで演奏することをお薦めしたい。対して後半のストラヴィンスキーは、これだけオケの編成が非常に大きい。パーカッションや金管はこのためだけに出勤した人が多いと見る-固定給ならば気の毒だ。この2曲は「花火」つながりなのかもしれないが、今日の演奏会に通低するテーマって一体何なのだろう?

プロコフィエフのVn協奏曲はLisa Batiashvili。なかなか端正な演奏。プロコフィエフの演奏を「端正」というのもおかしいかも知れないが、ストラド(日本音楽財団が貸与している「エングルマン」)の音とも相俟ってそんな風に思える。上手いが、幸か不幸か追っかけをしたくなるほどの「何か」は感じられなかった。

そして、ベト7。最近の方には「のだめ」の曲なのだろう。私も第1楽章でマングースが出てきて困った。しかし、私の年代にとってこの曲は「時計仕掛けのオレンジ」ではないだろうか。従って第2楽章はちょっと思い入れがある。今日は、コントラバスもチェロも客席から見て左側に配置されていたので、ヴァイオリン演奏を見るために中央少し左よりに席を取っている私の位置では低音が心地よく音楽を支えていた。

また、最初から少しテンポが速めだったのだが、第4楽章にいたっては、Simon Boliver Youth Orchestar of Venezuera?と思うような速さであった。弦楽器はまだしも、管楽器、特にこの曲で大活躍のフルートには辛そうだ。フルートトップのおじさん、お疲れ様、Well done!でした。演奏後、彼と少し話ができた時、「二度とこの速さでは演奏できない」といっていた。

セガンに言いたいことがある。指揮は上手いと思う。情熱的だし、動きも運動神経の良さが見て取れる美しさがあって、それは素晴らしかった。しかし、演奏終了後、本当に活躍場所の多かった奏者をきちんと褒め称えることはとても重要な指揮者の仕事の一部と思うがどうだろう。一番最後に木管、金管、パーカッションとセクションは立たせたけれど、あれほど曲全体で顕著に活躍したフルートのおじさんを何故一人で立たせなかったのだろう?勿論、完璧な出来ではなかったけれど、演奏家を称えるのは、出来の良し悪しを指揮者が評価するためではなく、Good jobに感謝するためだと思うのだが。


Ces toiles vous diront ce que je ne sais dire en p

2010-04-09 22:30:00 | ロンドン

鳴り物入りの「真実のゴッホ」展にようやく行った。「先の予定なんてわからない」と言っているうちに予約券は日曜の特別券も含め完売。美術館の前を通る度、中を覗いては列を見て諦めていたが、残り1週間と少しとなったためチャレンジ。列は短いように見えたが、実はテントの中で蛇行。結局1時間近く待つ羽目になった。

また、中もかなりの人混みだ。東京の国立近代美術館等に比べると会場が狭いため、第1室から第7室まで満遍なく満員電車だ。これはロンドンの美術展にあっては珍しい。また、東京も第1室は混んでいても、たいてい後半の部屋は空いているものだが、こちらの人は議論しながら絵を眺めるのが好きなようで、滞在時間も平均で1時間以上のように思われた。

恒例、最初から最後まで一通り見て、気に入った絵を眺める、という作戦に出るも、上述の人混みで、ままならず。結局選んだのは、まず死の直前(1890年5月)に描かれたというバラの花(最初は白いブーゲンビリアかと思った)。この絵は初めて観たが、純粋に非常に美しい。

F_0681

ついで恒例の糸杉(1889年6月)。近くで見ると、絵の具の盛り上がりが彼が本当にこの世に存在していたことを語ってくれる。

F_0613

そして最後、死の本当に直前(1890年7月)に描いたこの絵。この直後に自殺を図った人の絵とは思えない、大変に美しい絵(残念ながら3枚いずれの画像も少し青と黒が強い。実物は本当に優しいパステルグリーン色であった)。

F_0781

そして、この部屋に、題名にした「Ces toiles vous diront ce que je ne sais dire en paroles」という言葉が書かれていた。手紙から取った言葉だろうか。フランス語の美しさも相俟って、心に迫る。

この絵(複数)が私が言葉で語れないことをあなたに語る-というけれど、実はVincentは非常に多くの手紙を書き、それが出版もされている。今回の展覧会のもう一つの目玉も、その、Vincentが弟Teoや姉に宛てた手紙である。Vincentはオランダ人だが(勿論弟も)、やり取りはフランス語だ。「Mon cher frere, Merci pour ta lettre...」これだけで既にちょっと目が潤んでしまう。天才ではあるけれど困ったちゃんの兄と、それを献身的に支える実務能力に長けた弟。Teoが居てくれたからこそ、短い人生ではあったけれどVincentはこれだけの素晴らしい作品をわれわれに残すことができたのだ。

タラスコンやルーアンへ行くのに汽車に乗るように、どこかの星へ行くには死に乗ればよい、と言ったVincent。今はTeoと美しい星の国で安らかな余生を送っているだろうか?


アウリン四重奏団-最終日@ウィグモアホール、ロンドン

2010-04-06 01:30:00 | コンサート

アウリン四重奏団、最終日はOp.18-4、Op.135、Op.59-2。

Op18-4はなぜそんなに聴いたのか覚えていないけれど、とてもなじみのある曲。冒頭、セカンドがもう少しリズム感良く入ってもらえると良いな、と思っていたけれど、掛け合いのうちに皆良い感じに落ち着いていったような気がした。

全体的にアウリン四重奏団の演奏は良くも悪くも落ち着いていて、The Lindsaysを思い出させた。私はベートーベンの四重奏曲についてはAlban Berg、Amadeus、The LindsaysしかCDを持っていないので、非常にアバウトな感覚ではあるけれど。アウリンはThe Lindsaysに似ていて、またこのThe Lindsaysは英国ではとても評判が良い(ちなみにOp.135の英国推奨CDはThe Lindsays盤である)ことは、アウリンがこの3日間おじさま方の好評を博していることを説明しているのかもしれない。ちなみに個人的にはこの3つの中ではAlban Bergが一番しっくり来る。アウリンにしてもThe Lindsaysにしても、おじさま方ほどには評価できない。

Op.135は、聴きながら最後のピアノソナタ(Op.111、第32番)を思い出していた。結局、ベートーベンって天才だったのよね。最後のピアノソナタもそうだけれど、殆どジャズというか。ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲を聴いて驚いたことも、実はもうベートーベンがやっていたことなんじゃないの?と(結局いつも同じことを思うのである)。

今日もアンコールはハイドン。昨日も思ったことだけれど、私にはアウリンはハイドン向きでベートーベンではない-ので、アンコールでハイドンを聴けて良かった。