Que ma vie est belle!

私とは、美しいもの、美味しいもの、楽しいものの集合体。

さよならはしたけれど-ポリーニ@バービカン、ロンドン

2010-06-21 02:30:00 | コンサート

演奏会後半はポリーニのピアノでブラームスPf協奏曲第1番。ポリーニはこの間のロイヤルフェスティバルホールでの演奏を聴いて「さよなら」をしたところなのだが、リタイアが相当近い予感がするので、聞き逃すのは惜しいと、出かけた。

直前入手のチケットは前から3列目。ポリーニの指が良く見える。と、今回は、何とポリーニの鼻息と鼻歌の特典付きであった。

第一楽章は、オクターブで音をとる部分の多い、見ているだけで手がつりそうな楽章。ポリーニもいまひとつ精彩に欠けた演奏だったのではないか。若かった時はこんなではなかったのだろうな。一方、アルペジオはとても美しい。

第二楽章のアダージョは美しい。ポリーニもノッてきたのか、余裕が出てきたのか、鼻歌が混じる。第三楽章も、第二楽章からの良い雰囲気を引き継いで、鼻歌交じりの演奏だ。

まだ70歳にならないのに、相当老けた印象のポリーニ。呼吸音(鼻息)がずっと聞こえ、少々苦しそうなのだ。医師でない私が診断を下すことは出来ないが、COPDではないかと推察する。どんな天才も病気には勝てない。どんな演奏人生の幕引きを考えているのか、と思わず考えてしまう。

この曲を聴きながら、先の現代曲は勘弁して欲しいけれど、今更こんな感じの曲を「作曲しました!」と持ってこられても、やっぱりダメな気がした。ちなみに、この曲も初演のときは大変に不評だったとか。

ということは、先の曲も100年くらいすると、21世紀初頭の名曲、になるのだろうか。

いや、ならないほうに100万円くらいなら賭けてもいいな。


音楽とは何か?@バービカン、ロンドン

2010-06-21 01:30:00 | コンサート

ポリーニの演奏目当てだったのだが、その前に書きたいことが沢山あるので、2つに分割。プログラムの前半は、

Bach作曲、Webern編曲、Fugue (Ricercar) in Six Voices from the Musical Offering BWV 1079

Helmut Lachenmann作曲 Double (Grido II)

まずはBach/Webern。Webernはこの曲について「My instrumentation attempts to reveal the [Ricercar's] motivic coherence」と言っている。直訳すれば「楽器使いはこの曲のモチーフの一貫性を明らかにするための試みである」といったところか。

モチーフは一貫しているかもしれないが、そのモチーフが複雑に絡み合った曲。ちょっと複雑なレポートを理解し易くしようと、蛍光ペン(=楽器)で色分けしたところが、結果として、見た目汚く余計分かり難くなってしまった、という印象を持ったのは私だけだろうか。

もっとも、金管などがしょぼい音を出したりしていたので、蛍光ペンが曲がったり、他の色と混ざって汚くなったりしていたところが無きにしも非ず、ではあるが。

そして、何より2曲目。思わず「音楽とは何か?」を考えた。まるでSF映画の効果音のような音の連なり、ドアのきしむ音、なぜか分からないけれど、ヴァイオリンの駒の外(下?)側を弓で弾いたり、極めつけは糸巻きのところを弓で弾く真似をしたり。何だ、それ?これは、「音楽」なのか?

正直、外に出たかった。横に人が何人も居なければ。最後は聴いているのも辛くなって、でも、耳をふさぐわけにもゆかず、下を向いてなるべく脳の中に音が入ってこないように努めた。

現代の作曲家に残されたフィールド、可能性、とはこのような曲しかないのだろうか?だからクラシック音楽は衰退の一途を辿るのか?昔、バッハが、モーツァルトが、ベートーベンが、マーラーが新曲を出すような、その初演に立ち会うような興奮を味わうことのない我々の世代において、クラシック音楽の復活はありえないのだろうか。

作曲者と話が出来たので、「演奏会の帰り道、私はあなたの曲を思い出せないと思う」といったら、「モーツァルトだって1度じゃ覚えられないでしょ?10回くらい聴いたら、大丈夫」と言われた。いや、モーツァルト、全部は無理だけど、サビくらい覚えられる。それに、あなたの曲、10回聴ける忍耐力、私にはない。

って、本人には言わないけれど。