Que ma vie est belle!

私とは、美しいもの、美味しいもの、楽しいものの集合体。

恋愛の終焉ーポリーニ@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2011-02-26 19:30:00 | コンサート
ポリーニプロジェクトと題したコンサートシリーズの3回目。1回目はバッハ、2回目がベートーベンと大変魅力的なプログラムではあったが、これまではGustavoのマーラー交響曲第9番および出張と重なってしまったため、今回初めて聴くことができた。

相変わらずリターンチケット狙い。前から13列目、中央舞台に向かって少し左寄り、とピアノを聴くには最高の席。しかも隣が空席で、ほとんど2席独占状態。

最後のソナタOp.958~960。技術的にも相当高度なものを要求される曲ときく(勿論私は弾けないから伝聞だ)。ここ1、2年の間にロンドンでポリーニを聴いた感想は、やはり技術力の衰えが隠しきれない、ということで、それが最も危惧され、結局演奏会の間もそのことばかりを考えてしまう結果になった。

キャリアの幕の引き方ーもちろんポリーニだけでなく、自分も自分のキャリアをどのように終えるつもりなのか、を考えてしまう。勿論、それはまだまだ先のことであってほしいのだが、昔は漠然と、死ぬまで働きたい、などと考えていたことを思い、いくら自分が死ぬまで働きたい、と思っていても、必ずしもそれが許される訳ではないのだ、ということを、今更ながら目の当たりにしているようであった。

ポリーニのピアノは、今でも下手なピアニストよりよっぽど上手いが、それでも、もう最高のピアニストとは形容できない。恐ろしいほどの練習量に基づく記憶が無意識に指を動かしているのだろうけれど、時にその自動記憶のようなものが横滑りする。その瞬間の何と悲しいことか。

下手なピアニストよりよっぽど上手いし、もしかしたら次が彼の最後の演奏会かもしれない、と思うと、また足を運びそうな気もするが、本当に彼には「さようなら」をして、美しい思い出だけを記憶の中に留めた方が良いのかもしれない。

なんだか恋愛の終焉のように切ない。


エッシェンバッハのマラ9@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2011-02-25 19:30:00 | インポート
マーラーの交響曲第9番、と聞くと行かないではいられない。という訳で、今日はエッシャンバッハの指揮、London Philharmonic Orchestraでマーラーの交響曲第9番を聴いた。

第一楽章は、なんとなく「ギクシャク感」が否めない。よく分析されているけれど、再統合されていない、というのだろうか。いやがうえにも、ちょっと長い、とか、マーラーちゃんと校正してからあの世に旅立ってくれたら良かったのに、なんて思っていた。
しかし、第二楽章に入って、マーラーがウィーンに住んでいたことを納得させてくれるような、流れるようなリズム感を感じることができるようになり、俄然楽しくなってきた。マーラーの人生のどの部分をこの音楽は表しているのだろうか?彼は何を考えながら作曲したのだろうか、などと考えながら。
先日のGustavoには身びいきがあるので、楽しく聴けて当然なのだけれど、この流れるようなリズム、調子の変え方、今日の演奏は純粋にGustavoの時より好きかもしれない。
第三楽章、今日もこの終わりで誰も拍手しないことに感動していた。
第四楽章。これだけゆっくり引いて演奏しても、嫌みにならない。素晴らしい演奏だった。この曲を書いた人間は間違いなく存在したのだ。また、過去にだけ天才が存在した、なんてことはないはずだ。クラシック音楽の世界ではないかもしれないが、こういう「天才」が今もこの世の中には存在するはずだ。まだ私が気づいていないだけで。ちょっと会ってみたいーそれとも既にすれ違ったのに気がつかなかったのか?
最後の静寂を演奏者、聴衆皆で共有できたことも素晴らしい演奏だった証だろうか?

例え欲しいものが手に入らなくても、この音楽があれば生きてゆけるはずだーでも「この音楽を諦めたら欲しいものをあげる」と言われたらどうするだろう?ーなんて、非現実的なことを考えていた。


呼吸ーキーシン@バービカン、ロンドン

2011-02-13 19:30:00 | コンサート
キーシンのピアノリサイタル。今年はリストの生誕200年、ということでオールリストプログラム。

前半の2曲目、ピアノソナタB minor。とても静かで不気味ですらある最初と最後が印象的、たとえ生まれて初めてこの曲を聴くとしても、ここで静寂を乱してはいけないことくらい分かるのでは?ーと思うのだが。
クラシックに限らず、曲を聴いていると自然と呼吸がその曲に合ってくるものと思うが、ピアニッシモになっても、平気で咳をしたり(しかも切迫した感じの咳ではなくて、咳払い、のような)、音を立てたりする人が少なからずいることに驚いた。彼ら、彼女らは、本当に曲を聴いているのだろうか?
音楽性は相当怪しいく、ピアノを習いにいっても、全然的外れな演奏をする(演奏以前?)私ではあるが、それでも、音楽を聴いていたら、自然と自分の呼吸が音楽に寄り添うくらいの感覚はある。
友人のピアニストにこの話をしたら、「ショパンはイギリス人を「音楽音痴」と言い切った、また「彼らの耳は木でできているのではないか」と誰かへの手紙に書いたらしい」と教えてくれた。

なるほど、でも、木よりはましだと思う。最後の「ヴェネチアとナポリ」の、まるでオリンピックかサーカスかというような超絶技巧には拍手喝采だったから。

それにしても地下鉄が止まっていて、音楽の余韻どころではなかったから、私も平均的イギリス人に文句も言えないか?


ブラームス&ブラームス@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2011-02-04 19:30:00 | コンサート
ロイヤルフェスティバルホールでブラームスの二重協奏曲、交響曲第1番を聴いた。

Kurt Masur conductor
Anne-Sophie Mutter violin
Daniel Müller-Schott cello

前半が二重協奏曲。出だしのチェロの音がカラオケで前奏と歌い手の音程が合っていない感じ、というのだろうか。ちょっとぎょっとした。ムターが曲に合わせて体を動かし懸命に集中しようとする姿はいつもの彼女の協奏曲スタイルなのだが、協奏する相手がオケの他にもいる協奏曲ってソリストにとってどんな感じなのだろう?前から10列目にいたが、ムターのヴァイオリンは全体として思ったより弱い感じがした。丁度4週間後の金曜日に、カドガンホールでジョシュアベル、スティーブンイッサーリスで同じ曲を聴くのを楽しみにしよう。

後半は交響曲の第1番。出だし、フルトベングラーのCDでいつもティンパニばかり気にしていたので、弦がこんなに大きな音で演奏していることをすっかり忘れていて面食らった。第2楽章の木管は非常に美しかった。

ブラームスがメロディ作成に苦労していたなんて信じられないくらい美しいフレーズが随所に散りばめられている。これもクララシューマンへの愛故なのか。

クルトマズアは既に83歳。舞台に上がってくる様子には相当年齢を感じるのだが、指揮を始めると、その身体的な不自由さを微塵も感じさせない。スコアなしで振る姿に、このくらいの年齢の人たちにとって、こうした古典は絶対暗譜なのだろうか、と、そしてこうした訓練を積んでいれば、体が多少不自由になろうとも、いつまでも降り続けられるのか、と思った。なかなか良い演奏だった。

余談ではあるが、家に帰りYoutubeを探っていたところ、フルトヴェングラーのブラームス交響曲第4番の1948年の映像がでてきた。これは恐ろしい演奏である。古くて音も映像も決して状態が良いとは言えないが、それを超えて音楽が、すばらしい音楽が聴ける希有な資料である。お試しあれ。

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YouTube: Furtwangler rehearsals Brahms Symphony No.4 in 1948,London