グリーフケア

2014年11月19日 | 健康・病気

今夜の「NEWS WEB」(NHK総合11:30~12:50)の「深知り」は、「グリーフケア」のことだった。
私は、初めて聞く言葉だった。
グリーフ=深い悲しみをケアするということのようです。
日本グリーフケア協会の代表者が出て話していた。

大切な人を亡くしたときに感じるものは、

     「疎外感」
「思慕」       「うつ的不調」
     「頑張ろう」

というフリップが出た。

大切な人を亡くしたときというのは、どうしようもないですね。
その人にかける言葉など私には考えつきません。
私にできることといったら、
酒の飲める人だったら黙っていっしょに飲む、ぐらいでしょうかね。

私が“グリーフ”という状態になったのは、23歳のときに龍彦を失ったときです。
九想話に何度も書いて繰り返しになってしまいますが、あらためて龍彦のことを簡単に書いてみます。
高校を出て1年たった3月に就職した化学薬品会社で、彼と私は出会ったのです。
私は高校を出て手工ギター工房に弟子入りしたが3ヶ月で辞めて茨城に戻った。
田舎の金物屋で働いていたが、もう一度やり直そうと決意して上京した。
予備校に入り大学に行こうと考えたのです。
龍彦は山口の高校を出て大阪の会社に就職した。
そこでボクシングジムに通った。
プロボクサーになるなら東京だ、ということで大阪の会社を辞めて上京した。
彼と私は同じ求人広告を見たようです。
そして同じ会社に入社した。
私のする仕事は、血液染色液の製造と梱包だった。
その会社で製造していた血液染色液はよく売れた。
10リットルのフラスコに1週間に1度ぐらいは作っていた。
それを100mlの瓶に小分けしてラベルを貼りキャップシールをつけ梱包した。
龍彦は、運転免許を持っていて試薬の配達の仕事が主だった。
会社は本郷三丁目にあり、そのまわりには医療機器の会社が多かった。
大学の医学部もお得意さんだった。
よく龍彦の運転する車の助手席に乗り、試薬の配達を手伝ったものです。
塩酸や硫酸が入った大きな瓶を大学病院などに配達した。
会社は午後4時半に終わり、龍彦はボクシングジムへ、私は駿河台の予備校まで歩いて行った。
9月の頃、私は予備校に行かなくなった。
受験勉強についていけなくなったのです。
勉強してないからあたりまえです。
そのあたりになると私はタバコを吸うようになり、酒も毎晩飲んでいた。
三畳のアパートにはテレビがないのでいつもギターを弾くか、リコーダーを吹くか、本を読んでいた。
(その頃、私はまだケーナを吹いていなかった)
龍彦はプロテストに合格して四回戦ボーイとしてデビューすることになった。
ところがそのデビュー戦の1週間前に龍彦が私に話があるという。
駒込の居酒屋で酒を飲んだ。
龍彦がいう。
「おれはもう、人を殴るのも、人に殴られるのもイヤになった。怖くなったからボクシングをやめたい」
私はなんて話したんだろう。
それから私と龍彦は毎晩私のアパートに来て酒を飲んだ。
私のアパートは駒込にあった。
龍彦は友だちと王子のアパートで暮らしていた。
酒を飲むといっても私と龍彦の給料は安かった。
飯を食っていくのがやっとだった。
なので居酒屋になどめったに行けなかった。
いつもあの頃あった二級酒を買って私のアパートに行って飲んでいた。
つまみはサバ缶や乾き物だった。
テレビがないので2人でやることといったら、ギターを弾くか、リコーダーを吹くか、読書しかない。
それで龍彦にギター、リコーダーを教え、彼は読書もするようになった。
そのうち龍彦は会社を辞めた。
大阪に行くという。
私はさみしくなった。
ところが半年も過ぎた頃、ひょっこり龍彦は私のアパートに来た。
東京で暮らすといって仕事を探した。
私の近くに住むようになった。
驚いたことにあいつのギターがうまくなっていた。
龍彦は、フォーク歌手になるんだといいはじめた。
そのとき私と龍彦が大好きだったのは井上陽水だった。
龍彦は、陽水の曲を完全にコピーしてギターを弾いていた。
あいつの声は陽水のようにきれいな声ではなくハスキーだった。
それはそれで味がありよかった。
龍彦は会社の慰安旅行の宴会では、クールファイブが好きで前川清の真似をしてよくうたっていた。
演歌しかうたわなかった人間が、そのときには陽水や拓郎の曲をうたっていた。
しょっちゅう龍彦と会う暮らしをしていたら、また龍彦は大阪に行ってしまった。
21歳のときだったか、私は正月休みに龍彦の住むところに行った。
そのとき、龍彦は神戸の新聞配達所に住み込みで働いていた。
大阪に行ったが、流れ流れて神戸に辿り着いたようだった。
私が行くと彼は歓迎してくれた。
神戸の街で大酒を飲んだ。
甲子園球場の近くだった。
何を考えているのか龍彦は新聞配達所を辞めた。
私を彼の田舎に連れて行くという。
そして私たちは、山口の彼の生まれたところに行った。
岩国駅で岩日線に乗り換えて山の中へ行った。
錦川の上流のほうだった。
私は龍彦の家に2泊した。
それから2人で東京まで行った。
再び龍彦は東京で仕事をするようになった。
このあたりのことをあまりきちんと覚えていない。
東京で暮らしていたときに龍彦は突然いった。
「陶芸をやりたいから萩に行く」
そして萩に行った。
その年の夏、私は龍彦に会いに萩に行った。
ところがあいつは、同じ窯元の女と出奔していた。
九州のほうを一回りして、福岡の九想窯にも行ったらしい。
その女を連れて駒込の私のアパートに来て1週間ほどいた。
彼女と結婚するという。
私は、その結婚に反対した。
悪い女性ではないが、龍彦はやりたいことをやってない。
陶芸で一人前になったら結婚すればいい、まだ結婚はするな、と私はいった。
龍彦は私のいうことをきいてくれて結婚はしばらくしないことになった。
彼女は実家に戻り、龍彦は備前に行った。
それから3ヶ月ほどしたら彼の弟から連絡があった。
備前で倒れたと…。
私は、備前の龍彦が働いていた窯元に行った。
龍彦が使っていたロクロを見させてもらった。
そのまわりに彼が作陶した茶碗がいくつかあった。
あいつが入院している病院に行った。
彼は意識不明の状態で、喉に人口呼吸器を刺されていた。
脳髄炎という病気で手術していた。
そして12月8日に龍彦は死んだ。
私は、龍彦の結婚に反対したことを後悔した。
葬式に参列するために山口の彼の実家に再び行った。
葬式から東京に帰ってきた1年間ほど、私はどのように生きていたのか覚えていない。
「疎外感」「思慕」「うつ的不調」がゴジャゴジャに心の中で蠢いていた。
「頑張ろう」なんていう気持ちにはまったくなれなかった。
ただただ空しさだけだった。

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2 コメント

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足跡 (みっちゃん)
2014-11-20 22:14:51
自分が死んだら何人の人が時々思い出してくれるだろうか。
子や孫たちに自分が思い出として伝わるだろうか。
龍彦さんは思い出してくれる人がいて幸せですね。
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Re:足跡 (九想)
2014-11-22 00:38:24
みっちゃん、こんばんは。

龍彦のことは忘れられません。
この年になってもいつもあいつのことを考えてしまいます。
彼といっしょに年をとりたかったです。
龍彦の母親と3年前まで年賀状の交換をしていました。
母親が亡くなったことを弟が知らせてきて、
それから弟と年賀状を交換しています。
息子が高校1年生のときに、龍彦の生まれた土地に2人でいきました。
錦帯橋のかかる錦川の上流にある龍彦のふるさとは美しい土地でした。
もし行けるのならもう一度行きたいです。
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