2012年10月8日(月)
草津駅で電車に乗り、大津市・京都市といった府県庁所在地は無視して、京都府の長岡京駅に行きます。
↓京都の鴨川
タイミングよく?、JRの職員さんが入ってしまった・・・
長岡京駅西口→
この駅の近くを歩いていますと、神足(こうたり)と言う地名の看板をよく見ます。
そう言えば、前に神足駅というのがあったな・・・今の長岡京駅がそれです。
長岡「京」とありますとおり、昔それも奈良時代という大昔にちょっとだけ首都になったことがあります。
奈良時代は政情不安が渦巻いてまして、さらには飢饉や天変地異も多く、そのせいでちょっちゅう都が変わってました。
710年 平城京(奈良市) を皮切りに、
740年 恭仁京(くにきょう・京都府木津川市)
743年 紫香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲賀市)
744年 難波宮(大阪市)
745年 再び平城京
784年 長岡京
794年 ご存知、平安京(京都市) といった具合です。
↓「長岡京発見之地」の碑
(154)京都府長岡京市役所→
次に行ったのは隣の山崎駅です。
山崎駅→
↓駅前にある妙喜庵(みょうきあん)
この庵には国宝の茶室「待庵(たいあん)」があります。千利休が残した唯一の茶室と言われています。
↓山崎駅の京都寄りにある踏み切りを渡ります
↓渡った目の前は天王山登り口
天王山、どこかで聞いた事のある言葉だと思います。
よく使われるのが、プロ野球のペナントレースの終盤で、1位と2位チームが戦う場合でしょうか。
意味としましては、勝負を決するための最大のヤマ場、大一番です。
1582(天正10)年、織田信長を本能寺で討った明智光秀と中国征伐から急遽引き返してきた羽柴秀吉が争った、ここ「山崎の戦い」では、秀吉の勝利に終わりました。
秀吉の勝因はこの天王山を占拠できたからで、高いところにいたお蔭で相手の動きがよく見えたのです。
「天王山を制する者は天下を制す」、それが「天下分け目の天王山」と言われるようになりました。
ちなみにその天王山の南約5キロに「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」という峠があります。
光秀に加勢すると約束した筒井順慶(つついじゅんけい)は、この峠まで兵を進めました(順慶は兵を進めていないという説もあります)が、結局戦うことなく日和見をしていたという故事から「洞ヶ峠を決め込む」という諺が出来ました。
形勢を見て、いつでも有利な方につけるような大勢をとるという意味ですね。今の政界にぴったりな言葉だと感じるのは私だけでしょうか?
↓山の麓から大山崎町の市街地を見る
↓(155)京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町役場
↓彼はこの町が活動拠点のフェンシングクラブに入っていたとの事です
後ろにある高架は中央自動車道(名神高速)です。
↓役場から見る天王山(標高270.4メートル)
↓阪急電鉄の大山崎駅(右)
左は東海道新幹線です。
新幹線開業前の一時期、この大山崎駅から大阪方面に向かって約3キロの左の新幹線の高架線を阪急電鉄の電車が走っていたのは知る人ぞ知るところのちょっとしたウンチクです。
山崎駅を出ますと大阪府に入ります。
その最初の駅、島本駅で早速降ります。
島本駅(西口)からの歩道→
↓(156)大阪府三島郡島本町役場
この町には、サントリー山崎蒸溜所があります。
東口には桜井駅跡というのもあります。
↓桜井駅跡
駅といっても今の列車の駅ではなく、古代の駅家(うまや)の事です。
都と全国を結ぶ道に駅家を約16キロごとに置いて、駅鈴(えきれい)と呼ばれるものを持った役人(駅使・えきし)が駅家に置かれた駅馬を乗り継いで情報を伝えていました。これを「駅制・伝馬制」といいます。
時代が流れるとともに物資輸送でも使われ、江戸時代までこうした伝馬制が続きます。
陸上競技の駅伝はここから付けられたんですね。
また、ここは「楠公父子訣別の所」としても知られています。
1336年(建武3年)、南朝の後醍醐天皇は楠木正成(くすのきまさしげ)に足利尊氏を討つよう命じましたが、負けを悟った正成は、出陣前に息子の正行(まさつら)と、この桜井駅で今生の別れをしたといいます。
結局、正成は湊川の戦い(今の神戸市)で破れ、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との言葉を残し弟の正季(まさすえ)と差し違えて自害しました。
この話しは、戦前は天皇への忠誠を伝えるものとして、必ず教科書に載っていたらしいです。
↓左は「父子別れの像」、右は「楠公父子訣別之所」碑
大阪府に来たのも束の間、逆辿り、京都駅の一つ前の西大路駅で下車します。
ここから京都市の南区役所へ歩きます。
「遠いなぁ」(約1.6キロ位)と思いつつ歩いていましたところ、思わぬものを見つけました。
↓羅城門(らじょうもん)遺址
私が高校生の時の国語の教科書に出てきましたが、芥川龍之介の小説「羅生門( こちらは、らしょうもん )」の題材となった平安京の南側中央にあった門です。
この門から北に朱雀大路が伸び、大内裏に通じていました。
大内裏とは、平安京での天皇の居所で、今のJR二条駅の北側です。
意外なところで意外なものを見つけ、歩いた甲斐がありました。
〔5〕京都府京都市南区役所→
役所は下の部分。上は居宅部分のようです。
↓東寺→
でかくて枠に収まらない・・・
そのまま歩いて京都駅に行きました。
京都駅西側→
一番上は新幹線、その下は近鉄、一番下は東海道線。
↓京都駅八条口(新幹線口)
↓京都駅構内の週末のお馴染みの光景
ほとんどが首都圏からの人と思われます。帰宅ラッシュになっています。
京都からは、JR湖西(こせい)線という文字通り琵琶湖の西側を走る電車に乗り、再び滋賀県に突入。
↓琵琶湖
本日の最後の訪問地は新旭駅が最寄り。
(157)滋賀県高島市役所→
高島市は平成の大合併で成立した市で滋賀県の西北部を占めています。
京都から電車で1時間ほどの所ですが、ここから京都へ通勤している人がかなりいると、駅員さんは話してくれました。
実はここに降り立った時、駅周辺には新しく立派な家が多いので、この町にはこれといった産業も、大きな工場もなさそうだし、はて?ここの住民はどうやって収入を得ているのだろうと疑問に思ったんですが、駅員さんとの話しで氷解しました。
真っ暗になった中、今日最後にやってきた駅は、私がとてもお気に入りの福井県敦賀(つるが)駅、今日はとても好きな敦賀市に泊まります。
敦賀駅前→
↓晩は地元で捕れた日本海の幸(サンマを除く)を堪能
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↓参考までに地図を載せてみました(カッコ内はこれまでに行った所)
草津駅で電車に乗り、大津市・京都市といった府県庁所在地は無視して、京都府の長岡京駅に行きます。
↓京都の鴨川
タイミングよく?、JRの職員さんが入ってしまった・・・
長岡京駅西口→
この駅の近くを歩いていますと、神足(こうたり)と言う地名の看板をよく見ます。
そう言えば、前に神足駅というのがあったな・・・今の長岡京駅がそれです。
長岡「京」とありますとおり、昔それも奈良時代という大昔にちょっとだけ首都になったことがあります。
奈良時代は政情不安が渦巻いてまして、さらには飢饉や天変地異も多く、そのせいでちょっちゅう都が変わってました。
710年 平城京(奈良市) を皮切りに、
740年 恭仁京(くにきょう・京都府木津川市)
743年 紫香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲賀市)
744年 難波宮(大阪市)
745年 再び平城京
784年 長岡京
794年 ご存知、平安京(京都市) といった具合です。
↓「長岡京発見之地」の碑
(154)京都府長岡京市役所→
次に行ったのは隣の山崎駅です。
山崎駅→
↓駅前にある妙喜庵(みょうきあん)
この庵には国宝の茶室「待庵(たいあん)」があります。千利休が残した唯一の茶室と言われています。
↓山崎駅の京都寄りにある踏み切りを渡ります
↓渡った目の前は天王山登り口
天王山、どこかで聞いた事のある言葉だと思います。
よく使われるのが、プロ野球のペナントレースの終盤で、1位と2位チームが戦う場合でしょうか。
意味としましては、勝負を決するための最大のヤマ場、大一番です。
1582(天正10)年、織田信長を本能寺で討った明智光秀と中国征伐から急遽引き返してきた羽柴秀吉が争った、ここ「山崎の戦い」では、秀吉の勝利に終わりました。
秀吉の勝因はこの天王山を占拠できたからで、高いところにいたお蔭で相手の動きがよく見えたのです。
「天王山を制する者は天下を制す」、それが「天下分け目の天王山」と言われるようになりました。
ちなみにその天王山の南約5キロに「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」という峠があります。
光秀に加勢すると約束した筒井順慶(つついじゅんけい)は、この峠まで兵を進めました(順慶は兵を進めていないという説もあります)が、結局戦うことなく日和見をしていたという故事から「洞ヶ峠を決め込む」という諺が出来ました。
形勢を見て、いつでも有利な方につけるような大勢をとるという意味ですね。今の政界にぴったりな言葉だと感じるのは私だけでしょうか?
↓山の麓から大山崎町の市街地を見る
↓(155)京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町役場
↓彼はこの町が活動拠点のフェンシングクラブに入っていたとの事です
後ろにある高架は中央自動車道(名神高速)です。
↓役場から見る天王山(標高270.4メートル)
↓阪急電鉄の大山崎駅(右)
左は東海道新幹線です。
新幹線開業前の一時期、この大山崎駅から大阪方面に向かって約3キロの左の新幹線の高架線を阪急電鉄の電車が走っていたのは知る人ぞ知るところのちょっとしたウンチクです。
山崎駅を出ますと大阪府に入ります。
その最初の駅、島本駅で早速降ります。
島本駅(西口)からの歩道→
↓(156)大阪府三島郡島本町役場
この町には、サントリー山崎蒸溜所があります。
東口には桜井駅跡というのもあります。
↓桜井駅跡
駅といっても今の列車の駅ではなく、古代の駅家(うまや)の事です。
都と全国を結ぶ道に駅家を約16キロごとに置いて、駅鈴(えきれい)と呼ばれるものを持った役人(駅使・えきし)が駅家に置かれた駅馬を乗り継いで情報を伝えていました。これを「駅制・伝馬制」といいます。
時代が流れるとともに物資輸送でも使われ、江戸時代までこうした伝馬制が続きます。
陸上競技の駅伝はここから付けられたんですね。
また、ここは「楠公父子訣別の所」としても知られています。
1336年(建武3年)、南朝の後醍醐天皇は楠木正成(くすのきまさしげ)に足利尊氏を討つよう命じましたが、負けを悟った正成は、出陣前に息子の正行(まさつら)と、この桜井駅で今生の別れをしたといいます。
結局、正成は湊川の戦い(今の神戸市)で破れ、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との言葉を残し弟の正季(まさすえ)と差し違えて自害しました。
この話しは、戦前は天皇への忠誠を伝えるものとして、必ず教科書に載っていたらしいです。
↓左は「父子別れの像」、右は「楠公父子訣別之所」碑
大阪府に来たのも束の間、逆辿り、京都駅の一つ前の西大路駅で下車します。
ここから京都市の南区役所へ歩きます。
「遠いなぁ」(約1.6キロ位)と思いつつ歩いていましたところ、思わぬものを見つけました。
↓羅城門(らじょうもん)遺址
私が高校生の時の国語の教科書に出てきましたが、芥川龍之介の小説「羅生門( こちらは、らしょうもん )」の題材となった平安京の南側中央にあった門です。
この門から北に朱雀大路が伸び、大内裏に通じていました。
大内裏とは、平安京での天皇の居所で、今のJR二条駅の北側です。
意外なところで意外なものを見つけ、歩いた甲斐がありました。
〔5〕京都府京都市南区役所→
役所は下の部分。上は居宅部分のようです。
↓東寺→
でかくて枠に収まらない・・・
そのまま歩いて京都駅に行きました。
京都駅西側→
一番上は新幹線、その下は近鉄、一番下は東海道線。
↓京都駅八条口(新幹線口)
↓京都駅構内の週末のお馴染みの光景
ほとんどが首都圏からの人と思われます。帰宅ラッシュになっています。
京都からは、JR湖西(こせい)線という文字通り琵琶湖の西側を走る電車に乗り、再び滋賀県に突入。
↓琵琶湖
本日の最後の訪問地は新旭駅が最寄り。
(157)滋賀県高島市役所→
高島市は平成の大合併で成立した市で滋賀県の西北部を占めています。
京都から電車で1時間ほどの所ですが、ここから京都へ通勤している人がかなりいると、駅員さんは話してくれました。
実はここに降り立った時、駅周辺には新しく立派な家が多いので、この町にはこれといった産業も、大きな工場もなさそうだし、はて?ここの住民はどうやって収入を得ているのだろうと疑問に思ったんですが、駅員さんとの話しで氷解しました。
真っ暗になった中、今日最後にやってきた駅は、私がとてもお気に入りの福井県敦賀(つるが)駅、今日はとても好きな敦賀市に泊まります。
敦賀駅前→
↓晩は地元で捕れた日本海の幸(サンマを除く)を堪能
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