ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

ボラ、ボラ。

2005年12月10日 16時38分13秒 | 人づくり・場づくり
今、週に2回ほど日本語のボランティア活動に参加している。

活動には国籍も性別も年齢も動機も様々な人がやってくる。動機も様々で「日本語を勉強したくて来ました!」という人もよくよく話を聞いてみると、「仕事を探しているんだけど、今のままでは厳しいので日本語を…」だとか「子供の学校からのお知らせが読めるようになりたいので日本語を…」といったように何かを実現するために日本語を必要としている人が多い。で、いろんな話を聞いてると、その壁って想像以上に高いということを思い知らされる。

例えば日本に住んで15年になるぼくの知り合いは、日常会話はほとんど問題ない。かなり込み入った話もできる。でも、読むのはかなり苦労するらしい。「自分に必要な情報を読めるようになりたい」と常々言っている。3年半になる知り合いも会話はわりとスムーズにできるし、分からないことがあったら上手に質問して、うまく切り抜ける。でも、読むということになったら、これも話は別。

確かに周りにいろいろ質問できたり、助けてくれる人がいたら、それはそれでその場は解決するけど。でも、ずっと人に頼らないといういけない、頼らないと不安という状況は想像以上にストレスフルなものらしい。それにビザに関してだとか周りに相談するのが普通の場合は、気軽に周りに相談できるらしいけど。学校からの簡単なお知らせや、自転車撤去の通知のような日常的なものは、かえって周りに聞けないらしい。「いつもいつも、しかもこんな細かいことで…」という心境になるそうだ。

僕は外国で生活した経験がないので、想像しかできないのだが「聞きたいけど聞けない」のって一つ一つは大きくないかもしれないけど、積み重なるとほんましんどいだろうと思う。

それから、活動にやってくる人に中には、「言葉はできなくても何とかなるから、それ以上に友達が欲しい」とか、「気分転換をしたい」、「居場所が欲しい」という切実な思いで来る人もいる。活動に来ている理由を言葉にしたら割とあっさりしたものになってしまうけど、本当はいろんな理由があって複雑に絡み合って、活動に来るんだろうなと思う。

そういった経験が人を成長させるのかどうかは分からないし、そんなに単純に考えたらだめなんだろうけど、活動にやって来ている人たちは本当に魅力的な人が多い。壁を乗り越えるお手伝いと同時に壁が低くなるようなお手伝い(本当は最初から壁なんてないのが理想だけど)。それも義務感や使命感に突き動かされてお手伝いをするのではなく、「お手伝いの場」を楽しむ、…う~ん、すぱっと言葉にならないけど、うまくその人の生活(life)とぼくの生活(life)が絡まっていけばなと思う。
コメント
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