習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『8月のシンフォニー』

2009-08-23 22:22:58 | 映画
 なぜアニメーションでの映画化なのだろうか。この企画を映像化する上でアニメである必然性は全然ない。それどころかアニメで描くことのデメリットのほうが大きいはずだ。製作費もかかるし、リアリティーに於いても実写には遠く及ばない。なのに、敢えてアニメにこだわる。

 2002年から2003年渋谷を舞台に、田舎から上京してきた少女が路上でライブ活動を繰り広げる。それをサポートした学生たちとの交流と友情との物語である。青年実業家が彼女に注目し、無償の援助をする。お金儲けではなく彼女の真摯な歌声に心魅かれたからだ。だが、この導入部になんとなくウソ臭さを感じて乗れなかった。実話の映画化だから、そこには嘘はないのだろうが、なんだか綺麗ごと過ぎてリアリティーを感じさせない。

 周囲の人間を巻き込んでしまうカリスマ的な魅力がこの少女にはない。奇跡を起こすにはそれ相応の何かがあったはずなのだ。それは彼女の歌声だ、と言われるのだろうがそんな簡単なものなのだろうか? 僕には正直よくは分からない。ただ、これを1本の映画として見たとき、納得させるだけのものは提示されない。「日本中を魅了した《路上の天使》川嶋あい」という人を残念ながら僕は知らなかったから、彼女のことはこの映画から推測するしかないのだが、やはりいくら考えてもこれはリアルではない。

 アニメである可能性もまたここからは感じられない。リアルを放棄してファンタジーとして昇華しようとした、なんてことはあるまい。事実をもとにして「ひたむきに生きること」を描こうとしたなんて言われてもなんだかなぁ、と思うしかない。だいたい母親がどうしてここまで歌手にこだわるのかがわからない。ステージママになりたかったわけではあるまい。では、少女の夢を信じたのか、と言われるとそれも違う。歌手になる、というのは少女の夢ではなく母親の夢で、それに少女は巻き込まれただけにしか見えない。それってまずくないか?

 渋谷公会堂でのライブがクライマックスだが、これはただの成功物語ではないはずだ。ならば、この成功から何につなげていくのか、そこが見えてこなければ映画は終われない。なのに、なぜか単純にここで終わっていく。これでは納得がいかない。

 この地味なアニメ映画を敢えて見ようと思ったのは、この不思議な企画が実現した理由を知りたかったことと、この映画の本当の意味を知りたいと思ったからだ。なのに、映画からはそれがまるで見えてこなかった。悪い映画ではない。頑張ってよく作ったと思う。だからこそ、それだけに終わって欲しくなかったのだ。その先にある真実が知りたいと思う。

 渋谷の街の人混みに埋もれた少女が、生きていくことで見つけたもの。それは彼女のお話ではなく、そこに生きるすべての女の子たちにも通じるものがあるはずだ。その普遍的な真実こそをここに描いて欲しい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『宇宙へ』 | トップ | 演劇集団よろずや 番外公演... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。