名古屋の劇団である。学校団体での公演としてはめずらしい。学校にセールスに来るのは、大阪の劇団や、東京の劇団が多い。なかなか地方での学校公演の出来る劇団はない。しかも、この素材である。勇気がある。
ドストエフスキーの大作をなんと2時間の作品としてまとめた。膨大な原作からお話をダイジェストにするだけではなく、1本の完結した作品にして提示したのは凄い。
しかし、見ている高校生たちはかなり戸惑ったようだ。暗いし、重い。そんなことは最初からわかりきった話だと思うけど、教養のない高校生たちにはそうではない。ロシアの文豪の古典的名作という程度の知識すらないような子供たちも多数いる(はず)。そんな彼らは期末考査を終えたあと、視聴覚行事としての演劇鑑賞に連れてこられて、楽しいミュージカルでも、見せてもらえれるのか、という程度の気持ちでこの舞台と接したのである。
その戸惑いいかほどのものか。毎年夏の本校の演劇鑑賞はなかなか充実したラインナップで楽しみなのだが、今回はあまりにそのハードルが高すぎたようだ。作品自体は悪くない。だが、内容がそれなりの事前準備を必要とするものだったのに出来てなかった。
ドアを効果的に使った舞台美術がすばらしい。可動式のドアで、ドアが移動してさまざまな形で使われていく。階段状の舞台装置もいい。左右に階段を作り、踊り場も含めて実に効果的な使い方をする。高低差もうまく使い、メインとなる下の部屋には、十分な奥行きも与え、そこで奥も含めたこのメインとなるアクティングエリアを縦横に使い、ドラマを構築する。複雑なドラマと人間関係をこの立体的な空間を上手く使い、見せているのはいい。
冒頭、ラスコーニエフによる金貸しの老婆殺害シーンを見せ、さらに偶然そのタイミングで部屋にやってきた彼女の妹も殺してしまう。ひとり殺すのも2人殺すのも同じだ、という居直り。この衝撃的なエピソードから始まり、彼の内面のドラマが周囲の人たちとのドラマと交錯して描かれていく心理サスペンス。
だが、この冒頭から、もうついていけないような人も多数いたようだ。凄惨な話だというので、拒否反応を示した人、それはもう仕方ないけど、死んだ2人が、すぐに起き上がり、死人として舞台に居座るという展開がわからない人もいたのだ。とても面白い設定なのに、そこから無理ですか、とがっかりするしかない。
ただ、作り方もまずいことは確かだ。ふたりが傍観者としての死者に徹するだけではつまらない。彼女たちがその後の彼の行動を見守ることで何を思い、何を感じたか、そこに観客の視点を重ね合わせるような作劇が欲しい。この芝居をどこから見たならいいのか、そこを明確に出来ないことには、感情移入できない。主人公に感情移入はできない以上死者のふたりの存在がそのポジションとして有効ではなかったか。
ひとりの死者のおかげで、100人の命が救われるのなら、かまわない、という発想を納得させることは出来ない。お金を持つもの、持たざるもの。貧しさのなかで、生きていくためには何が必要なのか。ナポレオンを引き合いに出し、正義とはどんなものなのかを語るのだが、彼の論理と、拮抗する彼が助けた娼婦の論理。その拮抗する考えのせめぎ合いをどう理解するかで、このお芝居は面白いものにも、詰まらないものにもなるのだが、両者の間に立ち、客観的な立場にいる死者の視点がもっと明確になれば、観客は自分の立場からこの芝居に共感できたかもしれない。
これはチャップリンの『殺人狂時代』と同じテーマなのだが、あまりに人間関係が複雑すぎて、わかりずらい。もちろんそれはお話が複雑というのではなく、抽象的すぎるということだ。こういう観念的な話を空論にしないためには、作者なりの(それなりの)誘導も必要なのではないか。その点、少し曖昧すぎた気がする。(観客に委ねすぎた)とても面白い作品なのに、見終えた子供たちがあまり納得のいく顔をしていないのが、残念だった。