10の短編集。ちょっと中途半端なものも含むが、基本的にははずれはない。ほんのちょっと不思議。で、個人的にはタイトルにもなった最後の作品が一番好き。このなんとも言えない気分がいい。
たったひとりでオーストリアまで行き、ひげ人形の愛好会の集会に参加する。その団体から招待されたのだが、呼ばれてわざわざ来たのに、招待者の側では、ちゃんとした対応をしてくれない。老人たちばかりだから仕方ないのだ。ということなのだが。本当にそんな集会があるのかもよくわからないほどで、だから、戸惑うし、とても困る。なかなか集会のある場所にまでたどり着けない。だまされたのではないか、と不安になる。
ようやくその小さな会議室に行くのだが、そこでは、まるで彼女が偶然なんとなくそこにやってきただけのように扱われる。でも、彼らには悪気はない。わざわざ日本から来てくれたことを(自分たちが呼んだくせに)とても喜んでくれる。そこで体験した不思議な出来事が描かれる。会員達はみんな老人ばかりで、みんなひげ人形が好きで、彼女が書いたひげ人形を主人公にした童話を大事に思ってくれている。そこで2メートルに及ぶひげ人形のおじさんをプレゼントされる。そこで仕方なくその人形と共にミュンヘンを旅することとなる。
主人公の受け身の生き方が、なんだか自分とよく似ていて人ごととは思えない。僕もこんな感じで、いつも向こうから偶然やってくるものにただ反応しているだけだ。自分の意志なんかない。でも、与えられたことはちゃんと楽しむことが出来る。そしてそれが結果的に自分の生き方になったりもする。ただ、本当の自分の気持ちってどこにあるのやら、よくわからない、と思うこともある。
この小説集に描かれるお話はいずれも、なんだかほんの少し現実からずれた位相にある。日常と背中合わせなのに、ほんの少し違う。そんな場所での、ドラマだ。僕たちが生きる毎日の生活の中で、充分起こりうる出来事なのだが、それはなんだか不思議なことでもある。停電に抗議するため深夜の街を彷徨う2人の女(『夜の空隙を埋める』)。新婚旅行で南の島に行き、なんとなくクジラを見に行く夫婦(『クジラ見』)。葬儀屋とともに思い出の町をドライブする死人(『思い出ぴろり』)。実家の母がひとりになり、だんだん偏屈になり、家の中の狭い部屋にこもるようになった理由(『母の北上』)。その他の作品も大同小異。いずれも日常の裂け目で、ほんの少し立ち止まる瞬間が描かれる。
たったひとりでオーストリアまで行き、ひげ人形の愛好会の集会に参加する。その団体から招待されたのだが、呼ばれてわざわざ来たのに、招待者の側では、ちゃんとした対応をしてくれない。老人たちばかりだから仕方ないのだ。ということなのだが。本当にそんな集会があるのかもよくわからないほどで、だから、戸惑うし、とても困る。なかなか集会のある場所にまでたどり着けない。だまされたのではないか、と不安になる。
ようやくその小さな会議室に行くのだが、そこでは、まるで彼女が偶然なんとなくそこにやってきただけのように扱われる。でも、彼らには悪気はない。わざわざ日本から来てくれたことを(自分たちが呼んだくせに)とても喜んでくれる。そこで体験した不思議な出来事が描かれる。会員達はみんな老人ばかりで、みんなひげ人形が好きで、彼女が書いたひげ人形を主人公にした童話を大事に思ってくれている。そこで2メートルに及ぶひげ人形のおじさんをプレゼントされる。そこで仕方なくその人形と共にミュンヘンを旅することとなる。
主人公の受け身の生き方が、なんだか自分とよく似ていて人ごととは思えない。僕もこんな感じで、いつも向こうから偶然やってくるものにただ反応しているだけだ。自分の意志なんかない。でも、与えられたことはちゃんと楽しむことが出来る。そしてそれが結果的に自分の生き方になったりもする。ただ、本当の自分の気持ちってどこにあるのやら、よくわからない、と思うこともある。
この小説集に描かれるお話はいずれも、なんだかほんの少し現実からずれた位相にある。日常と背中合わせなのに、ほんの少し違う。そんな場所での、ドラマだ。僕たちが生きる毎日の生活の中で、充分起こりうる出来事なのだが、それはなんだか不思議なことでもある。停電に抗議するため深夜の街を彷徨う2人の女(『夜の空隙を埋める』)。新婚旅行で南の島に行き、なんとなくクジラを見に行く夫婦(『クジラ見』)。葬儀屋とともに思い出の町をドライブする死人(『思い出ぴろり』)。実家の母がひとりになり、だんだん偏屈になり、家の中の狭い部屋にこもるようになった理由(『母の北上』)。その他の作品も大同小異。いずれも日常の裂け目で、ほんの少し立ち止まる瞬間が描かれる。