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映画・演劇のレビュー

演劇集団あしたかぜ『しみったれたおまえらには愛をやろう 2013』

2013-11-28 20:38:08 | 演劇
 なんて真面目な芝居だろうか。だが、これではこの緊張を持続させるには、きつすぎる。まるで余白がないまま、どんどん締め付けられるようで、見ていて辛かった。それだけ、作者には余裕がなかったのだろう。そういう切実さこそがこの作品の魅力でもあるから、難しい。決してうまい芝居ではない。器用に作ることを作者であるつぼさかまりこさんは求めない。そうではなく、自分の中にある混沌をそのまま作品化しようとしたのだ。ここに描くことを客観的に捉えるわけにはいかない、という作り手の覚悟の程がきりきりと伝わってくる。だから、芝居は重くて、きつい。

 2つの時間と場所が、同じ空間で同時に描かれる。父と娘の部屋。男と女の部屋。だが、そのふたつは実は同じ2人のあの頃とその10数年後で、2組は同じ男女であることが、終盤明かされることになる。だが、そこには衝撃はない。驚かすために隠していたわけではないのだ。ふたつの時間はつぼさかさんにとって、過去と現在ではなく、どちらもリアルタイムの「今」なのだろう。だから、それらは混在し、絡み合って、ここにある。

 だが、なぜ、こういうことになったのだろうか。たくさん不思議なことはある。まず、2人の男のキャスティングだ。若い頃の父親を新撰組の下村さんが演じ、その10数年後を彼より若い役者に演じさせたのはなぜか。この逆転にはどういう意味があるのか、よくわからなかった。もしかしたら、このふたつの話はまるで、別々の話であってもいい、ということなのか。それにしてはあまりに、ふたつはシンクロしすぎている。

 母親の家出、父と幼い娘だけの生活。父親の暴力。家族の崩壊。父親と引き離された後、彼女はどんな生き方をしてきたのかは、明かされない。ただ、大人になった彼女が行きずりの男と一夜を共にすることで、そこから見えてくるものを、見せたかったのだろうが、観念的なせりふばかりで、伝わりきれない。いろんな意味で作り方があまりに曖昧でその意図がわからないのだ。だが、彼女が抱える痛みや苦しみは確かに伝わってくる。それだけでもいいか、とも思う。

 この拙い芝居が見せようとする世界を丸ごと受け止めることが出来たなら、きっと素敵なことだ。だが、そんな人はいない。でも、そんなこと、わかった上でそれでも作らざる得ない。そういう魂の叫びのようなものがここにはある。


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