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映画・演劇のレビュー

飛び道具『大食子子子』

2007-07-25 23:45:46 | 演劇
 時間軸のずらせ方、暗転の多用、繰り返し、といったこの芝居のベースとなるスタイルが、劇世界の内容以上に前面に出てしまっている。それを決してよくないとは言わないが、それが作品を深化させるのではなく不必要に混乱させていることは事実だ。

 色見本の裏に書かれた日記。吊り下げられてあるそれらが、一つずつ落ちていく。落ちることによって、そこに描かれた記憶もまた、彼らの心の中に沈んでいくことになる。この家でいくつもの思い出を作ってきた。その長い長い歴史が彼ら3兄弟を形作っている。両親と共に暮らした日々。その中で成長した彼らは、今では家を出てそれぞれ家庭を持つ。独立して、新しい家族を作った。一つの家庭から、3つの家族が作られ、かってこの家で刻んだような歴史がそれぞれの場所で作り上げられていく。

 そこにはもう既にあの頃の彼らのような子供もある。しかし、この芝居の中にはその子供を敢えて持ち込まない。頑ななまでに。両親と3人兄弟だけの物語として閉じていく。車の中に置き去りにされた子供。(それが、本当なら死んでしまう)妻の実家に預けられた子供。そんなふうに執拗に排除され、この家には入れない。

 そして、もちろん排除されているのは、この家の主人であるはずの両親もである。濃厚な気配だけを残したまま不在の彼らをこの3兄弟とその妻たちが演じていく。しかもそのエピソードは分断され、彼ら3組の夫婦が、ひとつの夫婦のように重なり合う。それはもちろん不在の両親の姿である。

  排除された子供たち(両親にとっては孫だが)は、この作品の家族を巡る物語にとって未来の象徴であるはずなのに、そんなものは不要だと言わんばかりの扱いをする。そして、今では両親もこの家に不要な存在だとでも言うのか。

 配偶者を伴い帰郷した3兄弟。しかし、家には両親が居ない。なぜ2人は居なくなったのか。子供たちのために山盛り作られた料理がテーブルなは並んでいる。そのうち帰ってくると思い待つのだが、日が暮れても一向に帰ってこない。近所を捜し、ついには警察にも通報することになる。

 だが、彼らの中にはなぜか、危機感がない。不在の両親の代わりとして3つの夫婦がここにいる。一つの時代が終わり、世代が変わる。そんな中で引きつながれていくもの。

 裏の山手でどかん、どかんと爆破工事の音がする。ここにターミナルができるらしい。しかし、それは彼らが子供時代の出来事で、今ではとっくに工事も終わり、電車が走っている、はずだ。幼い頃の記憶と現実の時間が交錯していく。3人の記憶はそれぞれが重なり合い、すべてが混沌としていく。ラストでは再び工事の音がする。時間はでこかで止まっているのだ。不在の両親、この家に入れない子供たち。それらが象徴するものに気付いたとき震撼させられる。

 とても刺激的な内容の芝居である。ただ、作者の意図が見えにくい。こうしてつらつら書いてきたことも、もしかしたら完全に的外れのことかも知れないという不安も残る。ある程度は作者の方向性が観客に伝わらないことには作品が見えてこない。面白い作品だけにそれが残念だ。

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