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映画・演劇のレビュー

極東退屈道場『延髄がギリです。』

2007-07-24 00:01:02 | 演劇
 ミサダプロデュースを解散してから、しばらく身を潜めていたミサダシンイチ改め林慎一郎による久々の新作は、今までの無機的で、知的パズルのような世界ではなく、人間の生々しくて、毒々しい息吹が感じられるような世界だ。風俗の世界を入り口にして、雑居ビルの中に蠢く人々を描きながら、禍々しい事件、入り乱れる人々、それらが妄想なのか、現実なのか、よく解らないまま語られていく。この悪夢のような世界は、単純な幻想というわけではなく、混沌とした現実、グチャグチャになってしまった現実のしがらみを思わせる。自分でもなんだか解らなくなっていく。狂気はどんどんエスカレートしていき、もう収集がつかない。それは、デビット・リンチやクロネンバーグの世界を思わせる。

 酸素バーに集まる人たちは、階下のホテル・ヘルスの女たちや、1階の無料案内所の男、そして、この雑居ビルに隣接するラブホテルの従業員である。そこに警察や林野庁の役人までもが入り乱れる。彼らは潜入捜査のため、最初は身を隠しホテルヘルスの新人としてやってきたり、リネンサービスの従業員として出入りする。本当のことはよく解らない。

 ただ、ペニスがもげてしまう病気で死んでしまった男が起き出し、自分のもげた一物を袋に入れて持ち歩くあたりから、この芝居は完全に常識を逸脱していく。

 手前のビルの窓と向こうのビルの窓が完全に隣接しているため、窓から窓へと人が行き来する。5階だが、あまりに近いため難なく人が出入りできる。

 この二つのビルが作る世界は単純な異世界ではなく、リアルな地平にあり、現実と背中合わせになっている。酸素バーにやって来て、新鮮な空気を身体に取り込むなんて、行為にどれほどの意味があるのやら、そんなことはよく解らない。ただ、そんな行為が自然なこととして描かれる。そして、そこで交わされる何気ない会話。ドリフの仲本工事の存在の薄さについての会話から芝居は始まるのだ。そこに確かに居るのにあまり存在感がない。ここにあるものもまた、そんなものなのかもしれない。

 6人のとても個性的な役者たちの内面世界を引き出してくるような絶妙な台本は、もともとはあてがきではなかったはずなのに、彼らの肉体を通過することによって、思いもかけない広がりを見せていく。理詰めでは、とても説明できない目茶目茶なものを、力ずくで納得させてしまうのは演出の力量であろうが、役者とのコラボレーションがここまで上手くいくことで作り上げられた奇跡でもある。

 本来なら閉じられた空間である、3つの場所を行き来することで、この猥雑な世界は、本来隔離された場所が全く別の様相を提示してくる。すべてをなかったものにするためにここは爆破される。この悪所さえなくなれば世界の平和は保たれる、とでもいうのか。しかし、こんな場所はもういたるところに存在する。そのすべてを破壊したとしてもまた続々と生まれてくる。これは際限なく広がる病原菌のようなものだ。林慎一郎はこの悪の温床を淡々とした描写で見せていく。狂気は静かにこの世界を覆っていく。

 シンプルな空間が美しい。その中での彼らのやり取りが、徐々に歪なものになり、爆発していく。そんな過程が見事に描かれている。考えてみるに、ある意味ではこの新しい作品も今までの彼の流れをしっかり組む作品なのかもしれない。ただ作品は林自身がイメージした世界を凌駕して、今までとは違う混沌を見せることになった。従来の理路整然としたクリーンな世界を、猥雑な空気が漂う世界に変えたのは、役者たちの力も大きいが、劇団を離れたことで何の気負いもなく取り組んだ彼の絶対の自信のなせる業でもあろう。

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