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映画・演劇のレビュー

プラズマみかん『ぼうふらとペットボトルを巡る光彩』

2008-05-25 20:32:05 | 演劇
 その意気込みは買いたい。題材の選び方、アプローチ。ドラマの組み立て方も含めて、とてもいいと思う。しかし、それをどう見せていくのか、という地点で、あらゆる意味で失敗している。こんなにも緊張感のない芝居を作っては駄目だ。上手い下手という問題ではなく、センスの問題か、なんて思ったが、フライヤーも含めて、決してセンスがないわけではないから、これは経験不足と、勉強不足からくる空回りが原因と見ていいだろう。

 作り方如何では可能性の感じられる若手集団だけに、残念でならない。こういうしっかりした意気込みを持って芝居に取り組もうとする集団を見ると、芝居もまだまだ棄てたものではないなぁ、と思えるのがうれしい。(それくらいなんだかがっかりする芝居が多いのだ)それだけに残念な仕上がりが惜しまれる。

 このちょっと気取ったタイトルが示す心象風景をもっとインパクトのあるイメージで提示できたならよかったのだが、それが出来ない。この人たちはきっと三枝希望さんのようなお芝居を目指しているのだろう。と言っても、きっと彼女らは三枝さんの芝居を見たことがないに違いない。ぜひ一度、彼の芝居を見せてあげたい。

 作、演出の中嶋悠紀子さんは「2006年に東大和市で起きた一夫多妻脅迫事件をモチーフにし、私が記憶する震災の思い出を舞台上にちりばめた」とパンフに書いているが、実話をモデルにする芝居は、そのイメージをどれだけ自分の想像力で膨らませるかに懸かっている。必ずしもそういう面では悪くない。

 子供たちが秘密基地で見た夢。担任の先生を巡る共同体が15年の歳月を経て再び甦ってくる。1人の先生と3人の女性たちのままごとのような共同生活。行方不明になった犬を待ち続ける日々。死んでしまったクラスメートの存在。ビー玉を舐めることで生じるトランス状態。描かれたいくつものイメージはそれぞれ興味深いものばかりだ。それらが有機的な結合を見せたとき、ひとつの明確なものが見えてくる。その時この芝居が何を示すことが出来るのか、そこに成否がかかっている。だが、この芝居はここまでである。

 イメージ以上のものは描けない。ちょっと気になるイメージをコラージュしてみました程度で終わっていく。しかも、後半完全に腰砕けになっていくので、見ていることもしんどくなってくる。求心力のない芝居は、いくらいいイメージをちりばめたところで、そこまでだ。女たちが家庭や同棲相手を棄ててここにやって来た根拠が示せない。彼女たちの過去とトラウマがその後の人生にどう影響を与えていたのかもわからない。急にここにやってくるようになったのはなぜかも示せない。ドラマをイメージだけで作るからそうなるのだ。大事なのは構成力と求心力。そこに尽きる。

 舞台美術もかなり手の込んだものを作っているように見えて、その実よくわからない。この秘密の場所がどんなふうに放置されているのか、ロケーションも含めて伝わらない。だいたい部屋の中に土足で出入りできるのは、それくらいここが汚いということなのか?それならあの茣蓙はいらないと思うが。空間の設定意図が全く見えてこないので、作りこんだ美術は機能しない。

 しかも、ドラマの核心にある死んでしまった(殺してしまった)ドブ川に沈んだ友達のことも、15年のタイムラグも、曖昧なままの放置プレイ。これではここで描かれる事件の怖さがまるで伝わらない。

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