
この映画のタイトルだが、『バードマン あるいは』ではなく、正確には『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』なのだが、これではあまりに説明的だし、変な効果を狙いすぎていて、好きじゃない。
イニャリトウが放つこの強烈なドラマは、こんなお話なのに、アメリカの今を鮮烈に射抜いた。マイケル・キートンは、自画像のような主人公を自虐的にではなく、とても切実に、でも余裕を持って(見事「余裕なく」見せるということでそれを実現する)演じる。表層的には、これは彼が『バットマン』の幻影を振り払うための儀式のような映画なのだが、そういうレイアウトを与えられて、そこからそんな卑小名ドラマではなく、壮大なドラマへとこの作品を誘う。
そうは言いつつも、それにしてもこの映画はいろんな意味であまりにイージーだ。見ながら、こんなにも、単純な図式でいいのかと、見ているこちらが不安になるほどである。だが、イニャリトウは豪快にそれでいい、と言う。そんなことにお構いなく、どんどんとお話を押し進める。
これは主人公にとって起死回生の一打。だが、周囲は懐疑的だ。さらには危機がどんどん彼に押し寄せてくる。ありえない事態の連鎖。でも、そこを根性と狂気で乗り切っていく。(いいのか、そんなことで、とも思うけど)マイケル・キートンに「何か」が乗り移ったようだ。取り憑かれて、ふつうの状態ではなくなったように、この狂気の世界を邁進する。彼の使う超能力は現実ではない、はずで、彼の見た幻想なのだが、そんなことにもお構いなく話は進む。(実際に手に触れず物を動かすし、最後には空を飛ぶし)彼の中では、もう、現実と妄想は等価のものなのである。ただ、そこに「芝居というもの」がある。この作品(芝居)を作り上げて失わされた名声を取り戻す。ただそれだけに取りつかれている。
全編を支配する驚異の長廻しは、この世界が現実ではなく夢の中のお話で、その悪夢そのものを象徴する。どこまでいってもここからは逃れられない。落ちぶれた映画俳優がブロードウエイで再生するために芝居に挑む。自分のすべてをこの1作に賭けた。レイモンド・カーバーの作品に挑む。ハリウッドのヒーロー映画で一世を風靡した役者が地味な文芸作品に挑戦することに観客は懐疑的だ。きっとつまらない、と。
映画はそんなお話の先によくあるわかりやすい感動ストーリーなんかは用意しない。どこまでも、混沌としたままで、話は混迷を極める。彼をさらなる狂気に誘いこむメフィストをエドワード・ノートンが演じる。マイケル以上に狂ったキャラクターである。そんなこんなで行きつく先が見えないまま、映画はラストへと突入する。だが、それまでと比較して、この終わらせ方はいささかあっけない終わり方だ。だが、それすらも確信犯なのであろうか。
それにしてもイニャリトウがここに展開したものはなんだったのだろうか。裸の王様よろしく、ブロードウエイを裸で闊歩する彼の姿は悲愴でも滑稽でもない。ただの狂気だ。ありのままの。その姿は感動的でもある。
映画があまりにわかりやす過ぎて、少し、ショックなのだが、このストレートな映画がアカデミー賞4部門受賞というところに、今のアメリカ映画の現在があるのだろう。ただあのラストの展開は少しつまらない。わかりやすいというのは、ハリウッド映画の鉄則かもしれないけど、この映画がそういうことをする必要はない。でも、それをしなければアカデミー賞は獲れないのなら、まぁ、それでいいのだが。
イニャリトウが放つこの強烈なドラマは、こんなお話なのに、アメリカの今を鮮烈に射抜いた。マイケル・キートンは、自画像のような主人公を自虐的にではなく、とても切実に、でも余裕を持って(見事「余裕なく」見せるということでそれを実現する)演じる。表層的には、これは彼が『バットマン』の幻影を振り払うための儀式のような映画なのだが、そういうレイアウトを与えられて、そこからそんな卑小名ドラマではなく、壮大なドラマへとこの作品を誘う。
そうは言いつつも、それにしてもこの映画はいろんな意味であまりにイージーだ。見ながら、こんなにも、単純な図式でいいのかと、見ているこちらが不安になるほどである。だが、イニャリトウは豪快にそれでいい、と言う。そんなことにお構いなく、どんどんとお話を押し進める。
これは主人公にとって起死回生の一打。だが、周囲は懐疑的だ。さらには危機がどんどん彼に押し寄せてくる。ありえない事態の連鎖。でも、そこを根性と狂気で乗り切っていく。(いいのか、そんなことで、とも思うけど)マイケル・キートンに「何か」が乗り移ったようだ。取り憑かれて、ふつうの状態ではなくなったように、この狂気の世界を邁進する。彼の使う超能力は現実ではない、はずで、彼の見た幻想なのだが、そんなことにもお構いなく話は進む。(実際に手に触れず物を動かすし、最後には空を飛ぶし)彼の中では、もう、現実と妄想は等価のものなのである。ただ、そこに「芝居というもの」がある。この作品(芝居)を作り上げて失わされた名声を取り戻す。ただそれだけに取りつかれている。
全編を支配する驚異の長廻しは、この世界が現実ではなく夢の中のお話で、その悪夢そのものを象徴する。どこまでいってもここからは逃れられない。落ちぶれた映画俳優がブロードウエイで再生するために芝居に挑む。自分のすべてをこの1作に賭けた。レイモンド・カーバーの作品に挑む。ハリウッドのヒーロー映画で一世を風靡した役者が地味な文芸作品に挑戦することに観客は懐疑的だ。きっとつまらない、と。
映画はそんなお話の先によくあるわかりやすい感動ストーリーなんかは用意しない。どこまでも、混沌としたままで、話は混迷を極める。彼をさらなる狂気に誘いこむメフィストをエドワード・ノートンが演じる。マイケル以上に狂ったキャラクターである。そんなこんなで行きつく先が見えないまま、映画はラストへと突入する。だが、それまでと比較して、この終わらせ方はいささかあっけない終わり方だ。だが、それすらも確信犯なのであろうか。
それにしてもイニャリトウがここに展開したものはなんだったのだろうか。裸の王様よろしく、ブロードウエイを裸で闊歩する彼の姿は悲愴でも滑稽でもない。ただの狂気だ。ありのままの。その姿は感動的でもある。
映画があまりにわかりやす過ぎて、少し、ショックなのだが、このストレートな映画がアカデミー賞4部門受賞というところに、今のアメリカ映画の現在があるのだろう。ただあのラストの展開は少しつまらない。わかりやすいというのは、ハリウッド映画の鉄則かもしれないけど、この映画がそういうことをする必要はない。でも、それをしなければアカデミー賞は獲れないのなら、まぁ、それでいいのだが。