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映画・演劇のレビュー

『メモリー First Time-(第一次)』

2013-03-31 20:57:30 | 映画
 とても残念な映画だと思う。これは僕が今年の大阪アジアン映画祭で見た作品の中で、唯一つまらなかった映画なのだが、ヒロインのアンジェラベイビーがとんでもなく可愛くて、それだけで全肯定したくなる。そんな映画なのだ。彼女の可愛さに免じて、いろんなことから目を瞑りたくなるのだけど、映画自身はあまりにお子様ランチで、そうはいかない。

 ただし、これは見せ方ひとつでとてもいい映画になるのだ。お子様ランチでも、いい映画はある。いや、それだからこそいい映画、というパターンもある。そう思うとこれは実に悔しい作品なのだ。相手役となったマーク・チャオも頑張っているし、今時あり得ない「往年のアイドル映画」の王道を行く話なのだが、これを今の映画として成立させるためには、こんな風にただ甘いだけのお話では、やはりダメだ。

 病気もの、悲恋ものはアイドル映画の定番で、ファンなら感情移入できるのだろうが、そのためには心地よく描かれる嘘の世界に酔えることが必須の条件だ。この映画は細部までとてもよくお膳立てされてある。だが、一番大切なことを忘れている。今はもうアイドル映画なんてものが信じられる時代ではない、ということだ。アンジェラベイビーのためならすべてに目を瞑れるような観客はいない。これは映画なのだから、ひとりの人間として彼女の演じるヒロインを描かなくては誰もついてこないだろう。時代錯誤も甚だしい。

 まず、これを映画として、成立させよう。そのためには、まず、あの母親はないだろう。彼女のために嘘の恋愛を用意する。この基本設定からして、恥ずかしい。映画全体をメルヘンとするなら、それなりの仕掛けが必要なのに、このバカバカしい話をそのまま見せる。そうではなく、全体が虚構の「お話」でしかない、ということを、前提にするべきなのだ。作りものであることが力を持つ映画とする。そのためには視点はヒロインになければならない。彼女の一人称が前提で、彼女がこの虚構をどう受け止め、その世界にどう自分を浸らせるのか。そこが必要だ。そうして彼女の内面のドラマさえしっかりと描かれたなら、この作品は信用できるものになる。なのに、残念だが、ただその一点がない。だから、すべてが絵空事のままごと映画にしかならないのだ。

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