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映画・演劇のレビュー

葛城市民劇団くすのき『ぱりぱり』

2022-03-28 11:12:23 | 演劇

昨年の椰月美智子(『るり姉』)に続く新作はなんと瀧羽麻子だ。外輪さんはとても趣味がいい。しかも、それをしっかりと自分の世界へと引き込んで、その上で更に「くすのき」らしい作品として仕上げ舞台化する。短編連作による長編小説をなんと65分の作品に仕立てた。この短さが心地よい。6つの視点から語られるお話を短いエピソードの断片の連鎖で描いていく。原作を生かしながらそれを一度解体して再構築した。

細切れのドラマのかけらを積み上げていくのだけど、それは淡いスケッチのようなタッチで、1本の作品としての強い印象を(敢えて)残さない。水彩画のような、さらさらと流れゆくドラマは、菫というとんでもない少女と彼女を取り巻く人々の姿をなんでもないことのように見せる。17歳で詩人としてデビューした天才少女の天然ぶりを優しく包み込む。彼女だけを特別として描くのではなく、彼女も含めてみんながただふつうに生活している姿の中に描きこむことになる。だから、この芝居を見ながら主人公であるはずの彼女の姿が(敢えて)際立たない。ちゃんと周囲に溶け込んでしまう。

役者たちはなぜか(舞台の下手ではなく)客席の下手側の扉から入ってきて、階段経由で舞台に上がり、ほんの少し芝居(基本ふたり芝居の短いエピソード)をして、また、階段を降り上手側の客席扉(舞台上手ではなく!)から去っていく。何度か大人数によるダンスシーンもあるけど、基本2人芝居が中心だ。(コロナ禍での作品作り故の配慮だろう)栞の妹、編集者、高校の先生、同級生たちとのエピソードも敢えて時系列には並ばない。彼女とのやりとりや、彼女のいないところでの彼女に関するエピソードが羅列される。舞台下、前方には芝生が敷かれていて、そこでは両親と幼い菫の姿が描かれる。桜が生まれる前の光景だ。この家族の光景を中心にした全体の3分の1くらいのエピソードはこの舞台下で綴られる。大きなホールを縦横に使うというより、そこここで多発して芝居が行われるって感じだ。空間の使い方がふつうじゃない。

お話自体も、最後まで見ても摑みどころのない淡さが保たれる。なんとも不思議な芝居なのだ。妹の桜による語りで全編を通し時系列で見せたならわかりやすい芝居になるのだが、そういうことはしない。外輪さんはこのお芝居をわざとよくわからないままにしたいのだ。特別じゃないけど、普通じゃないひとりの少女が、65分間の作品を駆け抜けていくような芝居。春風のような心地よさ。それがこの作品の身上なのだ。


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