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映画・演劇のレビュー

遊劇体『山吹』

2008-06-28 13:34:30 | 演劇
 驚いた。こう来るか!特に後半、女が魔物と化していく瞬間を捉えた部分。これでもか、これでもか、という圧倒的な語りの洪水。彼女の内面を言葉を通して切り込んでいく。自らの言葉が自らを切り込んでいく、この痛ましさ。鏡花の描いた言葉を忠実に聞かせることでこの芝居は命を持つ。ヒロイン(こやまあい)の声を条あけみさんと大熊ねこさんが見せていく。人形浄瑠璃のようにカタチとコトバを分離して見せていく。最初はかなりの違和感で乗り切れないが、クライマックスに至ってこれがしたかったのだ、と唸らされた。

 白と黒とのモノトーン。ストーカー行為に及ぶ女のひたむきな想い。伝わりきれない心。彼女の思いを受け止めきれない男。彼が結婚し、自分もまた意に沿わない男のもとに嫁ぎ、しかも必要とされないまま生きる苦痛。彼女は傀儡のように生きる魂のない女となる。こやまさんは表面だけで、その分裂した自己を表現する。それだけに、そんな感情が噴出するクライマックス場面の圧倒的な迫力に胸が一杯になった。ラスト、精華の扉を開けて出て行く。サイドの扉の全てが開いていく。そこを魔物と化した彼女が彼女を取り巻いていた魑魅魍魎たちを従えて歩いていく。

 泉鏡花のオリジナル戯曲忠実に見せながら、人と魔物の交流を通して純愛を描くキタモトさんの3部作、完結編。『天守物語』『夜叉が池』の2本の後、キタモトさんは迷うことなくこの『山吹』に着手する。前2作は今までもたくさんの人が様々なアプローチを見せてくれたスタンダードだったが、今回はなかなか上演されることのなかった作品であり、内容的にも先の2作ほどには派手さはない。

 だいたい主人公は魔物ではなく、人間の女である。時代設定も[現代]とされている。絢爛豪華な魔界ものではない。山吹の花咲き乱れる美しい風景を背景にした悲恋ものという印象を与える。だが、キタモトさんはそれを微妙にずらしてみせる。

 この3作品は少しずつ時代が下っていくという形をとっている。現代に向けて時間は流れる。さらには、魔物の側から、人間と魔物、そして今回は人間たちのみが描かれるというように描かれるものも徐々に淡白になっていることに気付く。この順番は明らかに意図的なものである。キタモトさんはこの話をある種の恋愛ものとして捉えている。人が魔物と化すほどに、狂おしく愛すること。この連作の先駆けとして上演された『金色夜叉』2部作からこれは続いた連作なのではないかと思う。

 キタモトさんは3本とも全く違う演出プランのもと、台本に忠実に上演を試みる。今回は今まで以上に徹底している。素舞台で、大黒も斜幕も取り外し、剥き出しの空間の中で、芝居を見せていこうとする。これはかなり危険な賭けだ。しかし、キタモトさんはここに異界を見事に作り上げる。本人はコスト・パフォーマンスだ、なんて謙遜するが、もちろんそれだけではないことは誰の目にも明らかだろう。絢爛豪華な鏡花世界を光と闇の世界として見せていこうとするのは、この3部作に共通するイメージである。できるだけシンプルに、そして壮大なスケールで見せる、というキタモトさんの試みは前2作をSーpace,ウイング・フィールドで上演したことでも明らかだ。狭く閉ざされた空間は、とてつもなく広い闇の広がりを作り上げていく。今回幾分広くなった劇場(精華小劇場)を使うが、そこを何もない空間として殊更誇示することで、その空間が示すものを根底に持つことになった。これはとても大事なことだ。

 今回の作品の舞台はあくまでも現実の世界で、そこで心を閉ざして生きていくことしか出来なかった女の哀しみを見せることがベースとなる。その心の闇が解き放たれた時、彼女は魔界のものと化していく。彼女の失われた心が、この何もない空間として表現されることが一番大事なことだ。そして、そんな彼女の心とコミットすることなく、ただ優しいだけの男と、深く彼女にシンクロし、彼女とともに魔界へと旅立つ老人の2つの心を交錯させていくことで、この作品は果てしなく美しい叶わない恋を描くスペクタクルとなる。

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