ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ブランデンブルク門

2009年11月13日 | ドイツ/オーストリア

 過日(11/8)朝日紙が、「冷戦終結20年 ‐ 21世紀の壁を越える」と題し社説を載せた。

 記事は “ 1989年11月9日。冷戦の最前線だったベルリンの壁が開放され、市民の手で打ち砕かれた。東欧各地で民主化革命が続き、12月の米ソ首脳会談で冷戦終結が宣言された ” と始まり、“ それから20年。世界を二分した冷戦構造は崩れ、代わってグローバル化が進んだ。それが世界経済の成長の原動力ともなってきた ” と続ける。

 Photo初めての海外旅行が91年11月、ロンドンからフランクフルトを経てベルリンに入った。
 当時のブランデンブルク門(上)の辺りは雑木林で、壁の一部がモニュメントとして残っていた。

 ベルリン・フィルのあるポツダム広場や市内を東西に延びるウンター・デン・リンデンを、東ドイツの国民車・トラバントが排気ガスを撒き散らしながら走っていた。

 東西を往来する際の検問所、チェックポイント・チャーリーは跡形もなく片付けられてい、統合2年、台頭し始めたネオ・ナチが職を失った人たちから支持を得るなど、負の影響が現れ始めてもいた。

  時は流れ18年後の08年、奇しくも同時期の11月にベルリン再訪、絵画館を訪ねた後、ポツダム広場からブランデンブルク門(下)へと歩いた。

 Photo_2かつて雑木林だった一帯は、大きくて黒い不揃いの矩体がいくつも並んでいた、ホロコースト記念碑だという。

 そして、広大なティーアガルテンに沿って走る道路の真ん中にレンガ程度の石が埋め込まれずっと先まで続いていた。
 それが、東西冷戦の象徴、1961年から28年余にわたって西ベルリンを囲み民族を分断した壁の痕だった。

 壁崩壊から20年、冷戦終結の証とされる東西統合がもたらす光と影が検証されようとしている。

 社説に戻る、“ これは成功体験と言っていいのではないか。その教訓を21世紀の世界に生かしたい ” とも書いている。
 が、そこには資本主義の波に取り残され苦しんでいる旧東ドイツの人への視線はない。

 未来に向けての教訓を否定する考えはないが、何かを変えることには必ず表と裏がついて回る。
 そして悲しいことに、裏側にいる人間が表側にいる人間よりも多く、また社会的弱者でもあるという現実が常について回る、あの小泉改革がもたらしたもののように。

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