先だっての<定期検査>、待っている間に<村田喜代子>さんの近著、「光線」(文藝春秋社刊)を読んだ。
八篇からなる短篇集だが形式としては連作になっていて、著者自身の子宮体ガンの手術、正確には放射線による四次元ピンポイント治療(ママ)。の前に書かれた四篇とその後に書かれた四篇が並べられていて、朝日の書評(9/30)に、“ 並べ方が絶妙で異色の長篇小説と読める ” とあったが同感である。
実体験としてのガンの治療、そして、ガンの発見とほぼ前後して起こった東日本大震災と福島の原発事故を通じて、普通の生活、当たり前の日常が如何に貴重であるかが淡々と綴れられている。
第一篇の「光線」がやはり読ませた。
けたたましいブザーの鳴動とともに分厚い電動扉が閉まって、放射線の治療を受ける妻だけがベッドに残される。
技師たちと急いで部屋を出る付き添いの夫に「そのときどんな気持ちになる?」と訊かれ、「ブザーの音に身がすくむわ。でも気にしないで、私はガンになったんだもの。あなたはそうじゃないんだから」と答える。
たった十数秒の照射だが「人間は一人・・・」と言う妻の孤独が伝わってくる。
妻(著者)は浴びる人で夫は見ている者であり、それは、震災と津波とフクシマの映像を絶えず流しているTVと重なる。
放射能と放射線、どこが違うのだろう。警報のブザーを毎日耳にしつつ、一人だけの部屋で照射を受けながら妻は思う。
抗がん剤や放射線照射は免れたが、同病者として検診を待つ間の読書に臨場感が迫った。
ところで、地震を東京で体験した若い母親の物語の第四篇「ばあば神」、全篇、読点(、)の代わりにブランク(空白)の文章で綴られている。
書評氏は “ 読んでいて今にも文章が崩れそうで不安定この上ない ” と書いていたが、装幀(関口聖司氏)も、鈍い光を背景にした光線の文字に、ピンポイント照射を暗示するらしき何箇所かの塗斑(ぬりむら)があって(* 拡大してみて下さい。)落ち着かない。
フクシマのもたらしたものを改めて思う。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.531
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