フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

「私は虫である」 JE SUIS UN INSECTE

2006-11-16 20:02:33 | 日本の画家

山口から帰った日の夜、NHKアーカイブスという番組で、ある昆虫画家の人生が流れていた。10年ほど前の番組だろうか。80過ぎの画家がファーブル昆虫記の虫たちを淡々と描いている。その質素で慎ましい暮らし振りが映し出されている。必要なものしかないような家に住み、ひたすら描いている。私の心を打ったのは、そのお顔の高貴さである。その美しさに思わず惹きこまれてしまった。番組終了後、現在の姿が出ていた。95歳 (?)。まだ矍鑠 (かくしゃく) としている。小学生に自然の大切さを輝く目で語りかけている。かくありたしと思わせてくれる一瞬であった。ファーブルの絵はまだ完成していないという。

その画家は、熊田千佳慕 (くまだ ちかぼ) という。
知る人ぞ知る人なのだろう。
嬉しい出会いであった。

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山口を振り返って EN ME SOUVENANT DE YAMAGUCHI

2006-11-15 23:55:39 | 
             中也  金子みすず  山頭火   宇野千代

山口の町を歩くとどこかで出会ったような、子供時代の一時期に戻ったような景色に出会う。その時、不思議な懐かさが私を襲う。私は記憶の中を歩いているような、過去と現在が同時進行しているような錯覚に陥る。

中也の世界に浸っている時に覚えた感情は、どう説明すればよいのだろうか。若き日に読みたいと思いながらもなかなか手がつけられなかったものに何十年か後に触れ、あの時自分のまわりにあったものは実はこういうものだったのか、と自分なりに理解することができたという喜びなのだろうか。その過程で味わう、自らもその過去の時間、空間に身を置いているという感覚のせいなのか。

結局のところ、過去なくして豊かな人生などありえないのではないか、という思いに至る。過去にだけ生きて何ら不自由を感じないというジェルファニヨンのことが再び思い出される。彼の場合は世界の過去であったが、自らの過去もある。このブログでの営みは、自分の過去を意識的に創り出していることになるのかもしれない。将来、再び今回のような感慨をもって、過去の一時期に触れた世界を、それは現在準備されているのだが、味わい直す時が来るのだろうか。

夜、目を閉じて出発前とその後の自分を振り返ってみる。それが何とはいえないが、大きく変わっているものがあることを感じる。ひょっとすると、それはこのメカニズムを感知できたという充足感に似たものなのかもしれない。


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以前にも中也の詩を取り上げていました。
2006-3-30 生い立ちの歌
2006-3-31 春宵感懐 EMOTION D'UN SOIR DE PRINTEMPS

彼の人生をじっくり眺めた後に改めてこれらの詩を読み直すと、以前とは全く違う印象で迫ってくる。彼の声の出所がずーっと近くに感じられるようになっている。

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記念館にて中也を想う PENSER A CHUYA AU MUSEE MEMORIAL

2006-11-14 21:28:07 | 俳句、詩

雨が止むのを待って県立美術館を離れ、歩き始める。バスが来たので目的地に行くのか運転手に聞いてみるが、よく理解できない。待ってくれているのでとにかく乗り込む。近くの老婦人に聞いてみる。「中也さんのところでしょう。温田温泉ですよ。」 と言って、まるで知り合いのことを語るように教えてくれた。気持ちよく、流れる景色を眺めていると、10分ほどで中原中也記念館に着いた。

中原中也 Chûya Nakahara(1907年 明治40年4月29日 - 1937年 昭和12年10月22日)

こじんまりしているが、手入れが行き届いていて美しい。中に入ると、正面で中也さんが迎えてくれた。東京に出た18歳の時に写真館で撮ったといわれる有名な写真が。

温田温泉で医院を開業していた父謙助 (30歳)、母フク (27歳) の長男として結婚7年目に生れる。「奇跡の子」 として大切に育てられる。小学校では勉強に打ち込んでいたようだが、次第に文学に興味を持ち始め、5年の時には短歌会に顔を出すようになる。それから次第に成績が落ち始めたようで、中学の時落第。うるさい父親から逃れるために落第し、京都の立命館に転校。17歳の時広島出身の女優の卵、長谷川泰子と運命の出会いの後、同棲をはじめる。その時期に富永太郎からランボーやボードレールを紹介されている。

彼の人生には、いろいろな人が顔を出す。

小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平
諸井三郎
古谷綱武
吉田秀和
青山二郎
坂口安吾
太宰治
北川冬彦
草野心平
萩原朔太郎
伊藤静雄
など

特に小林秀雄とは、中也が泰子と上京後に出会い、三角関係になり、彼女が小林の元に去るという事件以来、深い関係が生れる。今回、上京してからアテネフランセや東京外語大学でフランス語を本格的に勉強していたこと、また亡くなる年にも関西日仏学館に申し込みをしていたことなどを知る。ランボオの訳詩も展示されていた。

彼の人生は子供の時から死に取り囲まれていた。8歳の時、三歳年下の弟亜郎が亡くなる。中也は毎日、蓮華の花を摘んできては、「あーちゃんに」 と言って、仏様に供えていたという。また4歳下の恰三を24歳の時に結核で失う。「亡弟」 という小説を書いている。

それから自分の長男、文也も失う。これが相当応えたようだ。日記を見ると、文也に向けた男親の愛情に溢れる記述が見つかる。
「文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書き込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだって、僕の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやったんだ。」 (昭和11年7月24日)

文也が亡くなってから遺体を抱いて離さず、葬式の日以来位牌の前から離れなかったという。文也の霊に捧げた 「在りし日の歌」 の原稿を小林秀雄に託す。中也の死後出版される。

   わが半生

私はずいぶん苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果たして価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労してきたことであった!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持ちの、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

        La Moitié de Ma Vie

     J'aurai eu jusqu'ici bien des peines.
     Quelles peines, direz-vous ?
     Je n'ai aucune envie d'en parler.
     Quant à la question de savoir si ces peines avaient
     Quelque vertu ou n'en avaient pas,
     Cela ne vaut même pas le coup d'y penser !

     Mais j'aurai eu bien des peines.
     Oui bein des peines en somme !
     Et voici que, maintenant, ici-même, devant mon bureau,
     Je ne trouve plus que moi.
     Sans broncher, j'allonge mes mains, les regarde, et c'est bein là
     Tout ce que je peux faire.

        Dehors ce soir, les feuilles des arbres frémissent.
        Soir de printemps, aux lointaines émotions.
        Et voilà que, doucement je meurs !
        Oui, je reste assis, et je me meurs.


亡くなる3ヶ月前に阿部六郎宛に手紙を送っている。

「小生事秋になったら郷里に引上げようと思います。なんだか郷里住みといふうことになってゴローンと寝ころんでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」 (昭和12年7月7日)


四行詩 

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Quatrain

Pour toi il est mieux de rentrer dans une chambre paisible
Laissant derrière toi les feux éclatants des nuits de la ville
Pour toi il est mieux de prendre le chemin du retour
Et d'écouter tranquillement les murmures de ton cœur


弟の思郎氏が中也の最後をその著書 「兄中原中也と先祖たち」 に書いている。

「母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。『おかあさん』 という声がでた。一層奇跡を思う。もう一度 『おかあさん』 と呼んだ。中也は自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして 『僕は本当は孝行者だったんですよ』 といい、『今に分かるときが来ますよ』 とつけ加え、数秒おいて 『本当は孝行者だったんですよ』 といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れて落ちた。」

長男が亡くなった1936年に次男愛雅が生まれている。しかし、その翌年10月に中也が亡くなり、さらにその翌年1月には生まれたばかりの愛雅が亡くなっている。それが彼の死後であったことがせめてもの救いである。


    歸 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    椽の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯れ木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路傍 (ろばた) の草影が
    あどけない愁 (かなし) みをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置きなく泣かれよと
    年増婦 (としま) の低い声もする

あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ


        Retour

    Sec les piliers et secs les jardins
    Aujourd'hui il fait beau
       Sous la terrasse une toile d'araignée
       Bouge langoureusement

    Les arbres morts respirent dans la montagne
    Qu'il fait beau aujourd'hui
       Au bord des chemins l'herbe dessine
       Une ingénue tristesse

    C'est mon pays
    Un vent frais s'est levé
       Pleure sans hésiter
       Me dit à voix basse une femme plus âgée

    Oh  toi qu'as-tu fait.....
    Me dit le vent qui vient souffler


二階の資料室に上がり、CDに入っていた母親フクさんの思い出話を聴く。

中学から詩にのめり込んだ中也の成績はどんどん落ちていった。本を買ってやるから駄目だというようなことを先生からも言われ、本から遠ざけるようにする。すると、彼は本屋に入り浸るようになり、帰りが遅くなったという。そして帰ってくる時は、遠くから 「今日は本屋に寄ったんじゃありませんからね」 と言ってから家に入ってきたという。そんなこと言わなくてもいいのに、という感じで遠くの息子を懐かしむように語っていた。

この話はフクさんの回想録 「私の上に降る雪は ― わが子中原中也を語る」 の中にも出てくるのかもしれない。

今回、中也の詩にいろいろな人が曲をつけ、いろいろな人が歌っていることを知る。諸井三郎が曲をつけるのはわかるが、大岡昇平も作曲している。また、友川かずき、伊藤多喜雄、おおたか静流、小室等、そして五木ひろし、石原裕次郎までもが歌っているのには驚いた。

来年は中也生誕100年、没後70年に当たる。記念行事が予定されているようだ。

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フランス語訳は以下の本からです。
Nakahara Chûya « Poèmes » traduit du japonais par Yves-Marie Allioux (Philippe Picquier, 2005)

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雪舟 山水図 絶筆 LE DERNIER TABLEAU DE SESSHU

2006-11-13 00:09:56 | 日本の画家

雪舟の絶筆であると思われる 「山水図」 (国宝:今日の写真) がある。これも顔を近づけて見たい絵である。曲がりくねった道を登る二人の姿も見える。何を思うのか。そのうちの一人は雪舟自身なのか。

当時の禅僧の間で行われていた 「詩画軸」 という形態がある。それは軸の下に描かれた水墨画に触発された思いを漢詩に詠い、その余白に書くという詩と画が一体になった軸。この山水画についても以参 (牧松) 周省 (いさん ぼくしょう しゅうしょう) と了庵桂悟 (りょうあん けいご) の詩が上に書かれている。

以参 (牧松) 周省
「険しい崖の小径は、羊腸のように曲がりくねり、白髪の高士と蒼頭の侍童は、さまよい歩いているようだ。かつて住んだ韋村には、枯れた竹が短く生え、前代からの蕭寺には老松が長くそびえている。東へただよい西にとどまる、千里の船旅のような人生は、北の郊外や南の果てをめぐる、夢のようであった。私もまた、彼に従って帰りたい。青山がそびえるあのふるさとへ。」

了庵桂悟
「日ごろから詩や画で胸の内を晴らそうとしている。人の生き場所とは、いったいどこなのだろうか。重なり連なる山々は、剣の先のようにそびえ、はるか遠くの入江へつづく堤は、屏風のように横たわる。小径は岩の隅をまつわりめぐり、楼閣は木の陰で高くそびえている。牧松は韻 (詩) を遺して亡くなり、雪舟もまた逝った。私はこの空の果てで残りの命を長らえて、春の夢から覚めた思いでいる。」


会場を出ると、激しい雨。雨宿りをかねて、美術館入り口に設けられた茶屋で雪舟膳をいただく。赤飯、野菜の煮物、お澄まし、それに栗の甘露煮という簡素なお膳を、テントに当たる雨音を聞きながら味わう。これから向かう中也記念館のことなどを思いながら。

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雪舟展にて A L'EXPOSITION DE SESSHU

2006-11-12 22:28:48 | 展覧会

土曜の朝、山口駅からゆっくりと歩いて県立美術館へ。雪舟という名前は知っているが絵を真面目に見たことはないので、どんな世界が待っているのか楽しみにしながら。会場に入ると、雪舟晩年の肖像画が4枚ほど出ている。71歳の時の有名なものもあるが、見かけないものもある。特に、琵琶を抱えた髭もじゃの雪舟像。どういうわけか、その右手小指が上に立てられている。その姿を見て、急に親しみを覚える。

雪舟 (1420 - 1506)

当時としては長命になるだろう87年の人生を生きた。備中赤浜 (現在の岡山県総社 [そうじゃ] 市) に生まれ、地元の臨済宗・宝福時に入る。その後、京都の臨済宗・東福寺や相国寺 (しょうこくじ) で接客係をしながら絵を学ぶ。当時は 「拙宗」 を名乗っていたらしい。

30代半ば、京都から山口に移り40歳後半まで留まる。応仁の乱の始まった1467年、雪舟48歳の時、庇護を受けていた大内氏の出した遣明船で画家として始めて中国に渡る。そこで本場の絵や風物に触れる。数年後帰国し、九州を遍歴。1486年、大内氏に呼び寄せられ、再び山口に落ち着き、終生その地をベースに傑作を作り続ける。

会場に入ってすぐに目に付いたのは、壁に張り付くように流れる長蛇の列。これは16メーターに及ぶ国宝 「四季山水図卷 (山水長巻とも言われる)」 (67歳の作) に並んでいる人。待ち時間20分。列の外側から観て歩く。春夏秋冬の景色と人々の生活が描かれている。他の絵もそうだが、第一印象は全体に暗く、やや型にはまり、自由に羽ばたくというところがないというもの。ただ、普段見ている景色がよく捉えられていて、これはどこかで見た景色だ、というようなものがあったり、景色に隠れるように描かれている人間が何とも言えず、よい。当時の人の生活を想像させる。どんな話をしあっているのか、彼らの心にどんなことが去来しているのか、想像を掻き立てる。

達磨の絵は以前にも何かの本で見たことがあるが、達磨の顔の印象しか残っていなかった。今回、その 「慧可断臂図 (えかだんぴず)」 (これも国宝) の前に立ってみて、感動すると同時に、この絵の物語をはじめて知ることになる。説明によると、修行中の達磨に入門を頼み続けている慧可が、全く反応のない達磨に対して自らの腕を切り取って差し出し、その意思の固さを示している、というようなところらしい。よく見ると切断面に微かに赤い線が見える。それぞれの表情が素晴らしく、これほどの場面ながら動きがなく静かだ。

他にも人物像があったが、昔の人の表情や姿を見るとなぜか落ち着く。彼らと同時代人になったような気分になり、話しかけたくなる。その異空間に紛れ込んでいるような感覚がひょっとすると頭の中を爽快にするのかもしれない。小錦そっくりの 「韋駄天図」、雪舟が中国で見た人たちを描いた 「国々人物図卷」、草木をなめて薬となるものを探し出したという中国伝説上の医薬の神様を描いた 「神農図」、鯉の上に乗って空を飛ぶご老人 「琴高仙人」 など、など興味が尽きない。

晩年になると、形がはっきりしなくなり墨の濃淡だけで山水を表現するようになる。最初はこちらの方が私にぴったりきたが、いろいろ見直しながら歩き回っている間に、形のはっきりした物語がある山水も捨てがたいと思うようになっていた。

今回その実物に出会うことで、雪舟に興味が湧いてきている。最初に図版集を見ていたら、おそらく見に行こうという気にはならなかっただろう。常に白紙の状態でいて、まずそのものに出会うという姿勢のよい点が今回は出た格好だ。

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雪舟展に向かう ALLER A L'EXPO "VOYAGE A SESSHU"

2006-11-11 23:32:20 | 展覧会

先週の新日曜美術館で雪舟展が山口で開かれているのを知る。何気なく聞いていたが、山口の地図を見ると中原中也記念館も近くにある。さらに手帳に目をやると金曜が大阪出張になっているのを知る。ここまでそろうと、いつもの通り衝動的に決めてしまった。大阪の後、山口に立ち寄ることにした。

今朝は雨模様。雪舟、中也に触れるには案外ぴったりの天候かもしれないと思いながら、没後500年を記念した 「雪舟への旅 Voyage au monde de Sesshû」 を観るために山口県立美術館へ。駅構内で前売り券が売られていたので、早速仕入れる。何と地元企業 (豆子郎) のお菓子付きというお買い得。町をあげてのイベントのようだ。

国宝6点を一人で持つのは雪舟だけと言われる。今回そのすべてが集まっているとのこと。

山水長巻(毛利博物館)
秋冬山水図(東京国立博物館)
山水図(東京国立博物館)
慧可断臂図(斉年寺)
天橋立図(京都国立博物館)
山水図(個人蔵)

詳細は明日以降にまとめてみたい。

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人類の遺産 ? L'HERITAGE DE L'HUMANITE ?

2006-11-10 22:17:41 | 科学、宗教+

今日は大阪まで出張。ちょっとしたお話をするためである。昨日の夜は、声をかけていただいた長年の友人Y氏と若手を交えて食事を共にする。Y氏は現在要職にあり、仕事に追われ、週に1度くらいは東京にも出てきているという。現世を生きている真っ只中にある。

その席で、私が最近人類がこれまでに蓄積してきた遺産に非常に興味が湧いてきているという話をするが、それ何の話、というような反応でなかなか話に乗ってきてくれない。若手も笑っているだけで全く取り合おうとはしない。この手の話は現役の科学者には禁物なのかもしれない。生存することに必死の時には、この手の話をする人を別世界の人間と見ることがありうる。そんな話をまともに聞いている余裕などありません、ということなのかもしれない。先日の福沢の言葉に倣えば、未だ風韻を生ずるに至らず、ということになる。私とて、この時間的余裕がなければ、そのようなことを考えることなどあり得なかったことははっきりしているので、彼らの気持ちはよく理解できる。ただ、それでよかったのかどうかはわからない。

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ポール・クローデルの人生 PAUL CLAUDEL SELON SEEGAN MABESOONE

2006-11-09 23:15:36 | 海外の作家

先日読んだマブソン青眼さんの 「青眼句日記」 の中に、芸術 (俳句) に生きるのか実学に生きるのかに悩む高校生に向けて語りかけているところがある。そこで彼が 「フランスの大詩人」 というポール・クローデルの人生を引き合いに出している。彼の語るクローデルの人生を見てみたい。

Paul Claudel (6 août 1868 - 23 février 1955)

1868年、北フランスの地方公務員の長男として生まれ幼い頃から詩を作るが、中学生になって進路について悩み始める。ポールの5歳年上の姉はかの有名なカミーユ・クローデルで、20歳代からパリの彫刻界の新星として活躍していた。姉の懇請により彼も上京し、パリの名門高校に入学する。マラルメの文学サロンに顔を出したり、姉に浮世絵を見せて貰ったりしているうちに、芸術家として立ちたいと思うようになる。

しかし、彼はパリ大学の政治学部に進む。その頃漂白の詩人ランポーの作品に出会い、彼のような退廃的な生活はしたくないと心に決めていた結果である。18歳の時にはパリのノートルダム寺院で神の啓示を受け、敬虔な 「カトリック詩人」 として一生を捧げる決意をする。22歳の時、外交官試験に主席で合格し、国家への奉仕と詩作を両立させるべくその人生を歩み始めた。アメリカ駐在の後、中国福州のフランス領事に任命される。

しかし彼は中国嫌いで、日本行きを希望していた。高校時代から 「繊細な日本文化」 のことを姉から聞いていた彼は、いつか日本で仕事をするために外交官の道を選んでいたのだ。そんな彼の中国での在任予定期間は15年という長いものだった。5年が経つと彼は精神的に参ってしまい、1年間の特別休暇をとりフランス中部の修道院で詩作と祈りの生活をする。

1900年10月21日、両親に説得され、マルセイユから香港行きのエルネスト・シモン号に乗り込む。32歳のクローデルが絶望に襲われていたその時、高貴な娘、ロザリー (薔薇の意) と運命の出会いをする。

その瞬間、彼は大詩人になる。彼が追い求めていたモチーフをその時見つけた。それは、「薔薇」、「水」、「恋」。しかし、ロザリーはフランス人実業家の妻。それは不幸な結婚ではあったが。彼女はクローデルと同じ福州に住み着き、彼の恋人になる。それからの5年間で愛を深め、その結晶まで宿すことになる。そしてフランスに帰国後離婚し、彼の娘ルイーズを内緒で育てる。

悲嘆にくれたクローデルは1906年に、フランス近代劇の傑作と言われる 「真昼に分かつ」 "Partage de midi" にその一部始終を語る。彼は13年後に別の女性と見合い結婚をし、ブラジルに向かう。リオに着くと待ちに待った手紙がロザリーから届いていた。それから二人の間で長い文通が始まる。1920年、15年ぶりに二人がパリで密会した時はクローデル52歳、ロザリーは49歳になっていた。その年に彼は念願の日本へ大使として向かうことになる。日本滞在中にロザリーへ思いを馳せながら、大作 「繻子の靴」 "Le Soulier de satin" を完成させる。「薔薇のような、毅然とした生き方を貫く女性のために、宣教師の弟が帆船で世界を駆け巡る、という壮大な悲劇」 を。

その頃の詩作に 「百扇帖」 "Cent phrases pour éventails" という短詩の連作があり、その中に次の詩があった。

    Seule la rose 
      est assez fragile
        pour exprimer l'Eternité

     薔薇の花だけは
       永遠を表すほどに
         脆いものである


この詩 (句) は、亡くなったロザリーの墓碑に刻まれているという。

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昼の月 LA LUNE DE JOUR

2006-11-08 23:35:46 | 俳句、詩

木枯らし一番の翌日
空気は澄み切り、空は高い
ふと見上げるとそこには満ちた月が


   そは君か 
     高い高い空
      昼の月

     Je me demande si c'est toi
       dans le ciel haut et haut
         la lune de jour

      (paul-ailleurs)


一茶の句から

   長閑さや 浅間のけぶり 昼の月

   春の風 いつか出てある 昼の月

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小泉淳作という画家 QUI EST DONC JUNSAKU KOIZUMI ?

2006-11-07 21:51:31 | 日本の画家

先週の新日曜美術館で山本丘人という日本画家の特集が流れていた。その中で、尊敬する師のことを語っている見覚えのある画家が出ていた。小泉淳作である。以前に同じ番組で、仕事場を北海道に作り、京都建仁寺法堂天井の双龍図の制作に当たっている彼の姿を追っていた (ように記憶している)。その時、作品の迫力のみならず、彼の厳しい目が強い印象を残した。飽くことなき追求心、満足することを知らない、反骨の心がその目に表れているのを感じたのだ。そして、その目に再び会った。

彼のことをネットで調べてみると、以前に流し読みをしていた 足立則夫著 「遅咲きのひと」 で取り上げられていることを知る。その内容はネットでも読むことができる (こちらです)。

この方、1924年鎌倉生まれで御年82。父親は政治家で彼は妾宅で生まれたという。5歳で母親を、11歳で父親を亡くす。彼はこう語っている。「私にとって最大の不幸だと思われるのは、この世の中にとって全く報いを期待しない無条件の好意を与えられる親の愛情をほとんどうけることが出来なかったことだ。おかげで私は人から好意を受けたりした場合、この人はどういうつもりで自分によくしてくれるのだろうと考える習慣が若い頃から出来たことだと思う」

大学 (仏文) を中退して芸大の日本画科に入る。そこで山本丘人に師事する。軍隊、療養などのため卒業は27歳の時。画では食べていけないので、デザインで生計を立てる。48歳になった時に陶芸で生活できるようになり、画だけで食べられるようになったのは59歳からだという。まさに 「晩生の画家」 であり、大器晩成である。画壇でも一匹狼を通す。70歳で妻に先立たれ、孤独の中で自らの芸術を高めている。若くしてどこかに達したような錯覚に陥っていないところが、彼を慢心させることなく前に進める力になっているように感じる。そして彼の目はまさに彼の人生を表していたことを知る。

しかし本当のところ、どんなことを考えながらこれまで歩んで来られたのだろうか。
随筆集 「アトリエの窓から」 を注文していた。

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小川洋子 「ブラフマンの埋葬」 "L'ENTERREMENT DE BRAFFMAN"

2006-11-06 00:01:35 | 日本の作家

何を思ったのか、小説でも読んでみようという気になった。手に取ったのは小川洋子著 「ブラフマンの埋葬」。書き込みには次のようにある。

samedi 19 juin 2004, après avoir lu un atricle sur Ogawa dans le mensuel "LIRE" à l'IFJ

もう2年以上前にフランスの読書雑誌 LIRE で紹介記事を見て買ったもののようだ。読むまでは日本に来た (あるいは住んでいる) 外国人が出てくる話だと思っていた。

舞台はどこかの田舎にある「創作者の家」 という芸術家を自称する人がひと夏を過ごすところで、その家の管理人をしている主人公の 「僕」 がある日、後にブラフマンと名づけられる犬と出会い、それからの彼 (ブラフマンのことを 「僕」 はそう呼んでいる) との生活がその町の人や 「家」 に集まってくる人たちと同じ視線で淡々と描かれている。特に、「僕」 とブラフマンとのやりとりがたまらなくよいのである。例えば、

「僕はブラフマンの目を見て話した。トイレの訓練に限らず、いつでもそうだ。僕が話しだすと、必ず彼は僕の目を見た。疑いも持たず、うんざりもせず、あまりにも澄んでいるので本当にそこにあるのか心配になってくるほどの瞳を、こちらに向けてきた。かつて誰かにこんなふうにただひたすら、見つめられたことがあっただろうかと、思い出そうとしてみたが、思い出せなかった。」 

先日読んだマブソン青眼さんの日記にあった句を思い出す。

  「犬ときに 人のまなざし 夜の秋」   青眼
 
    Parfois mon chien
      un regard humain
        l'automne de la nuit 

     (traduit en français par paul-ailleurs)

「僕」 が骨董屋で見つけた家族写真についてのシーンも印象に残った。

「家族の写真だった。両親と子供が三人。上二人の男の子が十四歳と十歳くらい、妹はまだ幼くて三、四歳だろうか。夫婦の結婚記念日か、誰かの誕生日か、とにかく特別な日に、写真館で撮影されたものらしい。皆おめかししている。
(・・・)
 五人は皆、死んでしまったのだと僕は思う。最後に飾られていたのは誰の部屋だったのだろうか。たぶん、三人の子供の誰かだろう。きっとその家の一番大事な場所に、飾られていたに違いない。
 彼らが皆いなくなってしまった、という想像は、思いの外僕を悲しくさせなかった。むしろ安らかな気持ちにさせた。家族が一人ずつ旅立ってゆく。残された者は、死者となったものの姿を、写真の中で慈しむ。そこでは死者と生者の区別もない。やがて少しずつ残される者の数が減ってゆき、とうとう最後には誰一人いなくなる。まるでそういう家族など、最初からどこにもいなかったのだというように、あとにはただ無言の写真だけが残される。・・・・その静けさが、僕に安らかさを与えてくれる。」

そして彼はある秋の日にあっけなく死んでしまう。ひと夏のものがたりである。犬の生態が事細かに描かれていて観察に相当の時間を費やしたのではないかと想像させる。この物語を読みながら、中学の頃家で飼っていたチャーリーと名づけた犬のことが再び蘇っていた。


フランス人のファンが多いと聞くが、それがわかるような気がしてきた。

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駄句数句 MES QUELQUES HAIKU

2006-11-05 00:01:17 | 俳句、詩

青眼さんに倣ひて詠める

 「文化の日 紫煙の中に 君を見て」

   La journée de la culture
     je te vois
       dans la fumée bleue

    「パリの空 心を解かす 君がいて」

      Sous le ciel de Paris
        y'a toi
          qui ouvres mon âme

      「そは脳と パリーの地図見て ジュリアン・グリーン」

        La ville de Paris
          c'est le cerveau
            dit Julien Green

        「脳のパリ 記憶の住処に 冬籠り」

          Paris d'un cerveau
            au centre de la mémoire
             mes vacances d'hiver

          (par paul-ailleurs)

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マブソン青眼 - 風韻 SEEGAN MABESOONE "FU-IN"

2006-11-04 11:03:58 | 俳句、詩

マブソンさんの本を読んでいると、響きの美しい言葉に出会う。例えば、「風韻」。

手元の辞書には、趣、風雅、雅致、風趣などとあるが、これでは同義語辞典になる。ネットを探してみると、「風貌、風采、風体が外に表された人の姿なら、風韻、風格、風雅はさしずめ内から滲み出たオーラの如きもの。風韻とは、すれ違った時、ほのかに漂う香しい精神の香とでも申せましょう。」 (長澤雅夫氏の書のページ)、あるいは「『風韻』とは、俗離れした超越的な人間を表し、神の声がよく聞き取れるという人間の理性的な美しさを表した言葉であろう。」 (冨田疑研活動報告) などが見つかる。

この言葉は、福沢諭吉の 「文明論之概略」 にも2ヶ所に使われている。 

《世間に書画等を悦ぶ者は中人以上字を知て風韻ある人物なり。其これを悦ぶ所以は、古器の歴代を想像し書画運筆の巧拙を比較して之を楽むものなれども、今日に至ては古器書画を貴ぶの風俗洽く世間に行はれて、一丁字を知らざる愚民にても少しく銭ある者は必ず書画を求めて床の間に掛物を掛け、珍器古物を貯へて得意の色を為せる者多し。笑ふ可く亦怪む可しと雖ども、畢竟この愚民も中人以上の風韻に雷同して、識らず知らず此事を為すなり。其外流行の衣裳染物の模様等も皆他人の創意に雷同して之を悦ぶものなり。》 

「野蛮の横行漸く鎮定して割拠の勢を成し、既に城を築き家を建てゝ其居に安んずるに至れば、唯飢寒を免かるゝを以て之に満足す可らず、漸く人に風韻を生じて、衣は軽暖を欲し食は美味を好み、百般の需要一時に起て又旧時の粗野を甘ずる者なし。」

また、雪解を 「ゆきげ」 と読ます。一茶全集にある言葉として、「熟柿仲間」 (歯が悪くて、よく熟れた柿のような柔らかいものしか食べられない老人仲間)、「下手鶯」 (田舎俳人の揶揄)、「げっくり」 (がっかりの誇張) などが出ている。日本語を今使われているものだけに限ってしまうのは、いかにも勿体ない。その生誕からの蓄積に目をやると、そこには豊穣の海が横たわっていることを感じる。


ところで、マブソンさんも葉巻をやられる。友人を招いての食事メニューにシガーが組み込まれ、食後にゆったりした語らいが待っている様子が伝わってくる。味な計らいだ。葉巻が出てくる俳句をいくつか。

「ザビエル忌 葉巻の灰に 葉脈あり」   青眼

   La fête de Xavier
     y'a la veine de feuille
       dans la cendre de cigare

       「シガーケース 父の匂ひや 梅雨湿り」   青眼

          La boîte à cigares
            l'odeur de mon père
              la saison de pluie mouille
                 
         (traduit en français par paul-ailleurs)


2006-11-03 マブソン青眼 「一茶とワイン」 "UN VERRE DE VIN AVEC ISSA"

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マブソン青眼 「一茶とワイン」 "UN VERRE DE VIN AVEC ISSA"

2006-11-03 13:35:33 | 俳句、詩

先日、迷い込んだ新聞のサイトでこの方に出会った。フランスと俳句とのつながりに興味を覚え、紹介されていた本を読んでみることにした。

マブソン青眼 Seegan Mabesoone 著 「一茶とワイン: ふらんす流俳諧の楽しみ

青眼さんの紹介を少しだけ。本名はローラン・マブソン Laurent Mabesoone、1968年9月22日フランスに生まれる。母はイタリア人、父はベルギー人。10歳の時、ボードレールの 「悪の華」 にある 「旅への誘い」 "L'invitation au voyage" を読んで詩人になると決意する。高校生の時、遠い国に生きたいと思い、母親の言葉に従って誰も行かないところとして日本を選ぶ。宇都宮高校の図書館で芭蕉の英訳に触れ、俳人になることに。その後、パリ大学で日本文学を修めた後、旅に出る。本のタイトルにもなっているように一茶がお好みで、長野に住むことにしたという。この本にある俳文集 「青眼句日記」 からいくつか。

「朧月 郷なければ どこも旅」

「リラ冷えの パリー郊外 一人酒」

「パリーにて 星の匂ひか 花すみれ」

「結ばれて 離るる雲ぞ パリの秋」

「花の影 今年も我は 異国人」

「風船よ フランスは西 一万キロ」

「夏深し キッスの後の 古葡萄酒」

「青眼紀行」 の冒頭で、「私には故郷がない」 と言っている。彼の語る自らの人生はなぜか切なく、詩的でメランコリックな気分を呼び起こしてくれる。その気分が本文中に埋め込まれている俳句によって増幅され、ある種カタルシスに近いものを経験する。彼の中のノマドに共感を見出しているかのようである。彼については後ほどもう少し書いてみたい。

大学のホームページに彼の紹介があり、作品は "LE SAIJIKI" に詳しい。

一茶については、このブログでも取り上げています。
PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶 (10 mars 2005)

(version française)


2006-11-04 マブソン青眼 - 風韻 SEEGAN MABESOONE "FU-IN"
2006-11-09 ポール・クローデルの人生 PAUL CLAUDEL SELON SEEGAN MABESOONE

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テレビでトルコ語 LE TURC A LA TELE

2006-11-02 07:00:41 | 

昨日の夜中、テレビでトルコ語が流れているのを見て、思わず食いついてしまった。以前にトルコ語をほんの少しだけ齧ったことがあるので、その記憶が刺激されたようだ。しかも背景出てくるトルコの景色 (昨日はイスタンブールの町が出ていた) を自分が一緒に歩いているように楽しむことができる。昨晩はよりによって、こちらも以前から気になっているモロッコのマラケシュ Marrakech の街を散策する番組も続いていて、一気に旅心が疼いた。

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