フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

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ポール・クローデルの人生 PAUL CLAUDEL SELON SEEGAN MABESOONE

2006-11-09 23:15:36 | 海外の作家

先日読んだマブソン青眼さんの 「青眼句日記」 の中に、芸術 (俳句) に生きるのか実学に生きるのかに悩む高校生に向けて語りかけているところがある。そこで彼が 「フランスの大詩人」 というポール・クローデルの人生を引き合いに出している。彼の語るクローデルの人生を見てみたい。

Paul Claudel (6 août 1868 - 23 février 1955)

1868年、北フランスの地方公務員の長男として生まれ幼い頃から詩を作るが、中学生になって進路について悩み始める。ポールの5歳年上の姉はかの有名なカミーユ・クローデルで、20歳代からパリの彫刻界の新星として活躍していた。姉の懇請により彼も上京し、パリの名門高校に入学する。マラルメの文学サロンに顔を出したり、姉に浮世絵を見せて貰ったりしているうちに、芸術家として立ちたいと思うようになる。

しかし、彼はパリ大学の政治学部に進む。その頃漂白の詩人ランポーの作品に出会い、彼のような退廃的な生活はしたくないと心に決めていた結果である。18歳の時にはパリのノートルダム寺院で神の啓示を受け、敬虔な 「カトリック詩人」 として一生を捧げる決意をする。22歳の時、外交官試験に主席で合格し、国家への奉仕と詩作を両立させるべくその人生を歩み始めた。アメリカ駐在の後、中国福州のフランス領事に任命される。

しかし彼は中国嫌いで、日本行きを希望していた。高校時代から 「繊細な日本文化」 のことを姉から聞いていた彼は、いつか日本で仕事をするために外交官の道を選んでいたのだ。そんな彼の中国での在任予定期間は15年という長いものだった。5年が経つと彼は精神的に参ってしまい、1年間の特別休暇をとりフランス中部の修道院で詩作と祈りの生活をする。

1900年10月21日、両親に説得され、マルセイユから香港行きのエルネスト・シモン号に乗り込む。32歳のクローデルが絶望に襲われていたその時、高貴な娘、ロザリー (薔薇の意) と運命の出会いをする。

その瞬間、彼は大詩人になる。彼が追い求めていたモチーフをその時見つけた。それは、「薔薇」、「水」、「恋」。しかし、ロザリーはフランス人実業家の妻。それは不幸な結婚ではあったが。彼女はクローデルと同じ福州に住み着き、彼の恋人になる。それからの5年間で愛を深め、その結晶まで宿すことになる。そしてフランスに帰国後離婚し、彼の娘ルイーズを内緒で育てる。

悲嘆にくれたクローデルは1906年に、フランス近代劇の傑作と言われる 「真昼に分かつ」 "Partage de midi" にその一部始終を語る。彼は13年後に別の女性と見合い結婚をし、ブラジルに向かう。リオに着くと待ちに待った手紙がロザリーから届いていた。それから二人の間で長い文通が始まる。1920年、15年ぶりに二人がパリで密会した時はクローデル52歳、ロザリーは49歳になっていた。その年に彼は念願の日本へ大使として向かうことになる。日本滞在中にロザリーへ思いを馳せながら、大作 「繻子の靴」 "Le Soulier de satin" を完成させる。「薔薇のような、毅然とした生き方を貫く女性のために、宣教師の弟が帆船で世界を駆け巡る、という壮大な悲劇」 を。

その頃の詩作に 「百扇帖」 "Cent phrases pour éventails" という短詩の連作があり、その中に次の詩があった。

    Seule la rose 
      est assez fragile
        pour exprimer l'Eternité

     薔薇の花だけは
       永遠を表すほどに
         脆いものである


この詩 (句) は、亡くなったロザリーの墓碑に刻まれているという。

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