中也 金子みすず 山頭火 宇野千代
山口の町を歩くとどこかで出会ったような、子供時代の一時期に戻ったような景色に出会う。その時、不思議な懐かさが私を襲う。私は記憶の中を歩いているような、過去と現在が同時進行しているような錯覚に陥る。
中也の世界に浸っている時に覚えた感情は、どう説明すればよいのだろうか。若き日に読みたいと思いながらもなかなか手がつけられなかったものに何十年か後に触れ、あの時自分のまわりにあったものは実はこういうものだったのか、と自分なりに理解することができたという喜びなのだろうか。その過程で味わう、自らもその過去の時間、空間に身を置いているという感覚のせいなのか。
結局のところ、過去なくして豊かな人生などありえないのではないか、という思いに至る。過去にだけ生きて何ら不自由を感じないというジェルファニヨンのことが再び思い出される。彼の場合は世界の過去であったが、自らの過去もある。このブログでの営みは、自分の過去を意識的に創り出していることになるのかもしれない。将来、再び今回のような感慨をもって、過去の一時期に触れた世界を、それは現在準備されているのだが、味わい直す時が来るのだろうか。
夜、目を閉じて出発前とその後の自分を振り返ってみる。それが何とはいえないが、大きく変わっているものがあることを感じる。ひょっとすると、それはこのメカニズムを感知できたという充足感に似たものなのかもしれない。
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以前にも中也の詩を取り上げていました。
2006-3-30 生い立ちの歌
2006-3-31 春宵感懐 EMOTION D'UN SOIR DE PRINTEMPS
彼の人生をじっくり眺めた後に改めてこれらの詩を読み直すと、以前とは全く違う印象で迫ってくる。彼の声の出所がずーっと近くに感じられるようになっている。
山口の町を歩くとどこかで出会ったような、子供時代の一時期に戻ったような景色に出会う。その時、不思議な懐かさが私を襲う。私は記憶の中を歩いているような、過去と現在が同時進行しているような錯覚に陥る。
中也の世界に浸っている時に覚えた感情は、どう説明すればよいのだろうか。若き日に読みたいと思いながらもなかなか手がつけられなかったものに何十年か後に触れ、あの時自分のまわりにあったものは実はこういうものだったのか、と自分なりに理解することができたという喜びなのだろうか。その過程で味わう、自らもその過去の時間、空間に身を置いているという感覚のせいなのか。
結局のところ、過去なくして豊かな人生などありえないのではないか、という思いに至る。過去にだけ生きて何ら不自由を感じないというジェルファニヨンのことが再び思い出される。彼の場合は世界の過去であったが、自らの過去もある。このブログでの営みは、自分の過去を意識的に創り出していることになるのかもしれない。将来、再び今回のような感慨をもって、過去の一時期に触れた世界を、それは現在準備されているのだが、味わい直す時が来るのだろうか。
夜、目を閉じて出発前とその後の自分を振り返ってみる。それが何とはいえないが、大きく変わっているものがあることを感じる。ひょっとすると、それはこのメカニズムを感知できたという充足感に似たものなのかもしれない。
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以前にも中也の詩を取り上げていました。
2006-3-30 生い立ちの歌
2006-3-31 春宵感懐 EMOTION D'UN SOIR DE PRINTEMPS
彼の人生をじっくり眺めた後に改めてこれらの詩を読み直すと、以前とは全く違う印象で迫ってくる。彼の声の出所がずーっと近くに感じられるようになっている。