幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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イノセンス(人間と、生きる意味を問う)

2007-07-30 | なぜ生きる



「イノセンス」について、まだ記事を書いていませんでした。

ネットの記事を参考に、「イノセンス」というアニメはどんな

 ものか、紹介します。
 
  

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人間とは何か問う「イノセンス」(元記事はコチラ

監督・脚本の押井守、制作スタジオ・プロダクション I.Gが

大きな注目を浴びることになったのが、1995年に公開された

アニメーション映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」です。


体を機械化・電脳化した主人公たちが、ネットを操る情報テロリストと

戦うサイバーパンク・アクション。

主人公・草薙素子が、肉体性のすべてを捨て去り精神(ゴースト)だけの

存在として電脳ネットワークの海の中へ消えていってしまう、

という哲学的とも言える衝撃のラストを描き出しました。

その先鋭的な映像表現も含めて、日本よりもむしろ海外で

「MAMORU OSHII」の名前が大きくクローズアップされることとなったのです。

米・英での劇場公開、翌96年には米ビルボード誌でセルビデオチャートNo.1

獲得するなど世界的話題作となり、「タイタニック」のジェームズ・キャメロン

「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟といった海外の著名な映画監督たちにも

大きな影響を与えたという事実は、押井監督の非凡さを端的に表しています。

その押井監督が、満を持して送り出す最新作が本作「イノセンス」です。

日本のアニメーション界を代表する選りすぐりのスタッフ、

そして実制作期間だけでも3年、準備を含めれば5年というかつてない制作体制。

それをもって、押井監督が今回取り組もうとしていることは、

自分の住む日本の観客に向けて広く問いかける作品なのです。

だからこそ、一見SFファンタジーの形式を借りながら、

現代の日本そのものを正面から描き出すという究極的なテーマに挑んだのです。

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次に 監督・脚本の押井守氏の言葉です☆

人間は何故自分の似姿を造ろうとするのか。 押井守

(元記事はコチラ

今を生きる人々にとって、現代は過酷な時代だ。

不況、リストラ、殺人と、心の荒むニュースには事欠かない。

かくいう僕も、アニメーション業界という、人間の業の濃縮ジュースの様な

ところで今までやってきて、いい加減人間というものに飽き飽きしている。

出来れば煩わしい人間関係を捨て、自宅のある熱海で温泉に浸かりながら

ボーっと余生を過ごしたい、そう思うことがある。歳をとったという

事かもしれない。

動かぬ身体に鞭打って、会社に通う毎日である。

しかし、これから人間ってのはどうしていくんだろう

という事には大きな興味を抱いている。

今、世の中は大きな不安のただ中にある。出来ることなら、

その不安の原因を解き明かし、映画の中で描きたい。


この映画に、人間は登場しない。登場人物は全て、人の形を

模した人形たちである。

人形をもっと解りやすく言うと、ロボットということである。

人間は、常に自分の似姿としてのロボットを造ろうとしてきた。

工業用ロボットだったら、もっと合理的な、必ずしも人間の形を

していなくても良い筈なのに、何故人の形を模したロボットを

造ろうとするのか。

そうした、説明のつかない事をする人間というものを、

人形の側から語ってみよう、そうすれば少しは人間というものが

わかるかもしれない、と考えた。


   

物語の主人公・バトーは映画のガイド役である。

アンドロイドの暴走事件を追う中で、バトーは様々な人形たちと出逢う。

破壊されて何も語らないアンドロイド、人間の姿をしたロボットの女性、

禍々しき祭礼の中で人間に焼かれる人形たち、自ら死体となって、

人間であることを超越したと自惚れる男。

そしてバトーもまた、戦いの中で傷つき、自分の身体を機械に置きかえて

ゆくことによって人形に近づいてゆく。


バトーが出逢う人形たちは、それぞれの人間観を持っている。

各々が、人間ではない立場から、人間の傲慢や欺瞞を問いただす。

バトーは、観客の代理人である人間の相棒・トグサと共に、

人間という存在を問う、地獄巡りの旅に出る。

観客はバトーに案内され、トグサという人間を通して、

様々な人形達の声を聞く、という仕組みになっている。


この映画は、人間中心主義の立場をとらない。生きとし生けるもの、

人間だって、動物だって、ロボットだって等価値であるという結論を

残して終わる。

こんな不安な時代だからこそ、皆が何に価値を与え、共に生きてゆくか

という事こそを考えるべきだと思うのだ。

家族、恋人、友人。我々は決して独りでは生きられない。

そしてこの物語の舞台である2032年の未来では、ロボットや電子存在も、

人間にとって必要な他者になっている。いや、そう言う時代はすでに訪れていると

言っていいかもしれない。


今の我々に必要なのは、人間中心のヒューマニズムではない。

人間そのものが限界に来ている、人間の底が抜けているこの時代に、

人間をとりまく、もっと広い視野での倫理観というものが、

必要だと思う。

この映画を作りながら、今この世界を覆っている言いようのない不安、

そしてそのただ中にある人間というものの意味を、共に考えてゆければ幸いである。(談)

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映画の中では、古今東西の名言がちりばめられています☆


この前、このブログでも紹介した、ラ・ロシュフコーの言葉

「死を理解する者は稀だ。

 多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。

 人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」


も出てきました。


さて、この映画を見た人の感想を耳にすることがしばしばありますが、

多くは、「映像がきれいだった。ストーリーはよく分からなかった」

というのが多いようです。。。

今回は、ちょっと違った視点からの感想を述べてみますね。

押井氏が、

「人間は何故自分の似姿を造ろうとするのか」 
を大きなテーマにしているのは、自ら語るところですが、

それに加えて、

「人間は人形を愛するが

 人形にだけはなりたくない」

 
ということを考えてみたいと思います。

映画の中でも「(罪を犯しても)人形になりたくなかった!」  

という叫びが描かれています。

人形はこよなく愛するのに、なぜ、人形になりたくないか?

それは人間の「支配する側にはなりたいが、支配される側には

なりたくない」という心理がはたらくからだというのは、

想像に難くないでしょう。

当たり前すぎることではありますが、人間のエゴを象徴している

ようい思います。

「人間とは何か」

「人間のいきる意味は何か」

を問うた映画というのは間違いないでしょう。

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