『ゴッドファーザー』を始めとして数々の大役をこなしてきた
アル・パチーノが、新作映画『ベッツィ・アンド・ジ・エンペラー』(原題)で
皇帝ナポレオン・ボナパルト役を演じるそうです☆

アル・パチーノが皇帝ナポレオンを演じる - goo 映画
バートランド・ラッセルは「幸福論」において
ナポレオンを通して「幸せ」とは何かを語っています。
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アレキサンダー大王もとうてい彼の夢を実現することは
できなかっただろう。
なぜなら、彼の成功が成就するにつれ、彼の夢もまた
それだけの範囲を拡大していったからだ。
p20
ナポレオンは、学生時代には、級友に対する劣等感の
ため苦しんだものだった。
級友が裕福な貴族であったのに、彼は貧しい一介の
給費生でしかなかったからだ。
その彼が、後に亡命フランス人たちの帰還を許容した
とき、彼はかつての級友たちが彼に頭を下げるのを見て、
満足した。
それは彼とって、大きな喜びであったに違いない。
だが、今度は皇帝になることによって、
その満足を得ようとした。
そして、その結果がセントヘレナ(流罪)であったのだ。
人間は全知全能にはなれない。
権力への愛によって完全に支配された人生は、
遅かれ早かれ、打ち勝つことのできない障害にぶつかって
挫折せざるをえなくなる。
p21
君たちが光栄を望む場合、諸君はナポレオンをうらやむかも
しれない。
けれども、ナポレオンがシーザー(カエサル)をうらやみ、
シーザーがアレキサンダー大王をうらやみ、
さらにアレキサンダー大王が、実在の人物ならぬヘラクレスを
うらやんだとしたら?
成功ということだけによって、死っとからのがれることは
金輪際できないのだ。
なぜなら歴史や伝説のなかには、いつでも諸君よりもはるかに
成功した人間が幾人もいるのだから。
p92
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では、がめつく求める生き方ではなく、気晴らしを
する生き方はどうでしょうか?
ラッセルは言います。
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酒を飲むことは、一時的な自殺にほかならない。
いかなる形においてでも、陶酔を求める人間は、
忘却以外の希望はすべて投げ捨ててしまっている。
p22
趣味や生き甲斐は、多くの場合、いや、おそらく十中八、九まで
根本的な幸福の源泉ではなくして、むしろ現実からの逃避の方法
であり、直面するのにはあまりにも困難な何かの苦痛を忘れる
ための手段にすぎないだろう。
p160
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そして、クラッチの次の言葉を引用しています。
「われわれは動物として生きるよりも、むしろ人間として
死にたい」
p25
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幸福というものは難しいものです。
簡単に考えていたら大変なことです。
ラッセルはさらに次のように警告します。
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人生なんて、愚劣なものだ。
欲しいと思うものすべてを持っている人間が、なおそれでも
幸福ではないのだから。
p29
「死」はわれわれが常に愛する人々を打ち倒してしまうだろう。
p239
よりよい休息の場所に向っているのか、あるいは、ただ死と
破壊に向っているのか、それがさっぱり分からずに、暗い夜道
を歩んでいる者の苦しみの表現でもある。
この絶望から抜け出す道を発見するために、彼は自分自身を
越えて行くことを学ばなければならない。
そして自分自身を越えることによって、この「宇宙」の自由を
獲得しなければならないのだ。
p98
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幸福論を訳した堀秀彦氏は次のように解説しています。
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幸福を努力と闘いを通して手に入れるためには、私たちはまず
幸福がどういうものであるかをはっきり知っていなければならない。
「青い鳥」の正体を知っていなければいけない。
だが、そのように幸福の正体を具体的にとらえることは可能か。
ラッセルははっきりと出来ないという。
幸福の正体はよくわからない。
わかるのは、幸福のほうではなくて、不幸のほうだ。
不幸なら、確かによく分かる。
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ラッセルの幸福論を通して、ふつう思い描いている幸福は
真の幸福ではないということが改めて知らされました。