ブレンド日記

世の中の出来事・木馬での出来事・映画の感想・本の感想・観るスポーツ等々ブレンドして書いてみました。

生きるということ。

2009年10月15日 | 四方山話
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シロシキブとムラサキシキブ。
いずれも近所の花畑で見つけました。
この紫色の方は、実を源氏物語の作者、紫式部に見たてて美化したもので、ミムラサキとも言うらしい。
ほんとについ近所なのだけど、、花は見落としていたんだわ。
シロシキブもこれまたかわいい真珠の小粒のよう・・

来年こそは、花も楽しみたい・・・
紫式部、ステキな名前ですよね。

目もあやに紫式部のつぶら玉  
    秋陽に照りてかがやき居るも

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 やはり新聞休刊日はなーんか物足りない。

山陰中央新報に時々連載されている逸見庸のエッセイ。鋭い時代の切り込みでハッとすることが多いのだけど、今日は「流砂の夜」という文にハッとしたのだった。

それによると
自分のいる場と時間が流砂のようにずれ始め、体ごとほの暗い斜面を滑り落ちる感覚に陥ったのだ。ずれるとは、あるべき位置から外れるということだ。だがこれは滑落感ではなくて、、私の場合「あるべき位置」自体が、どこかわからなくなる。実はあるべき位置などとうになくし、心もからだも現実から日々ズルズルとずれていってるのに、いかにもあるべき位置にいるふりをして生きているだけかもしれない。

なんだかすごくよくわかる。
逸見さんの時空のずれとは少しニュアンスが違うかもしれないけど、私なんかいつもやるべきこと、やるつもりのことをが、うまくはかどらず完全に時代に取り残されている。

人生は長いようで すぎてみるとこんなに短いのかと思う。
若さだって、時代に乗り遅れない生き方だって、失ってから 初めてありがたさがわかる。しかしわかった時はもうい遅い。
自分が若くて、時代に乗り(少なくともそう思っていた。)、夢と希望に毎日燃えて生きていたとき、自分の若さを完全に使い切るというような才覚は少なくとも私にはなかった。今思えばもったいない。
私は二十歳の時、六十歳のおばさんに生きる喜びなんぞあるのだろうか、と可哀そうに思っていた。
しかし自分がそうなってみて、さぁ どうだろう。

ただ食いつなぐだけのために 儲からない商売をしていても、それだっていつまで続くか分からず、夢がない。ああだこうだと考えてみても、道筋(先行き短いことは分かっているが)は漠然としたまま、ハラハラ散る落ち葉に埋もれてしまったように、この先どっちに行けばいいのかさえさっぱり分からないんだよなぁ。困ったことに・・
散らばっていた思いや これから先の生き方や考え方が、自然にしゅるしゅるっとまとまってくれないかな、とまるで他人事のように思っている。

ううむ。
生きるということは、自分の身の丈を知り、どこで自分の生き方に妥協するか、ということなのだろうか・・・


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