アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

「純粋」を求めて命を燃やした、佐伯祐三

2009年06月04日 | Weblog
今年、大阪が生み、パリに逝った画家、佐伯祐三の没後80周年(30歳という若さで亡くなっています)。そして、大阪市、淀川付替えから100周年にあたる。この双方を合わせた記念行事が行われております。「佐伯祐三展」へ行ってきました。

 なぜ、わざわざ佐伯祐三か?それは、40年前にさかのぼりますが、当時の画学生は、知れる限り全員が、「パリ」を目指していました。藤田嗣治、佐伯祐三、川島理一郎、前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎、木下孝則、荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美…みなパリで学びました。画家以外でも、 金子光晴(詩人)、薩摩治郎八(作家であり、大富豪。華麗な暮らしから「バロン薩摩」と呼ばれた)、島崎藤村もパリへ行きました。もちろん、モディリアーニ、スーティン、パスキン、ピカソ、ザッキン(雑菌ではない)…。ルソー、キスリングも。
 パリヘ行けば何とかなる。画学生達は、いつ創作活動をしているんだか知らないけど、とにかく会うたび、「パリへの夢」を語るのでした。その話に必ず登場するのが、「佐伯祐三」 名前はあまりにも有名ですが、作品を知っているとか、生涯を知っている人は少なくなってしまいました。還暦過ぎ御用達の画家でしょうか。

 祐三のアウトラインは…
 大阪生まれで、高校まで大阪に。東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業後、パリヘ。一度帰国し、再びパリヘ。パリで死去、享年30歳。

 6年間の画家生活で、およそ550点の作品を描いた。油絵を描いたことがある人は、6年間で、550作品は、「アンビリーバブル」でしょう。しかし、本当なのです。そのことを物語っている事実があります。それは、あまりにも描くのが速いため、カンバスが間に合わない。祐三はどうしたか?完成した作品の裏(カンバスの裏)に、また別の作品を描いたのです。祐三展では、裏面の絵の写真を横に掲載したり、壁に飾らずにフロアについたて(衝立)のように立て、「裏表の絵が見えるように」展示しています。

 祐三の絵ですが・・・
 渡仏したときすでに、シュールレアリズム、キュビズム、素朴派などがありました。影響を受けないはずはありません。日本の風景は、私(アンティークなオヤジ)の目から見まして、「印象深いものがない」。ただ一枚、カンバスのほぼ中央に立木が配され絵が真っ二つにわれている風景画がありました。私は、立木でも電柱でも、中央付近で画面を分割してしまうのには賛成できません。自分で描く風景は、絶対にそのようにはしません。しかし、祐三はもちろん意図的に、風景を割ってしまった。驚きました。

 パリおよび郊外の風景画は、ユトリロに酷似しています。見た瞬間、「ユトリロの模写か?」とさえ思いました。モチーフとして「文字」が登場する風景が多いです。街角のポスター、看板など。自分のサインを絵の中の文字に同化させたりという、「茶目っ気」なのか「芸術」なのか?…文字を造形要素に取り入れている。これは祐三の特徴と言えましょう。再渡仏する前の祐三の言葉として残されているのは、「日本の風景は、ボクの絵にならん」です。

 自画像をはじめとする人物画ですが、目元が暗い。中には、わざとに擦ってぼかしてしまったものも。目がはっきりと描かれた人物画は、死ぬ直前、郵便配達夫にモデルになってもらって描いたものと、同じ頃ロシア人の少女を描いたものだけ。

 佐伯祐三を世に出したのは、「山本發次郎」です。祐三の死から3年後、画商から無名だった祐三の絵を見せられた。そのときの様子を、發次郎自身がこう書いています…
 「あの時のことは今でもよく覚えています。胸に動悸が打つ異様な感じで、長い間我を忘れて眺め入りました」
 發次郎は、106点の祐三の作品を蒐集しました(第二次世界大戦で、64点を焼失…)

 祐三は、どうして比類なきスピードで次々と作品を仕上げていったのか?なぜ、そのように急がなければならなかったのか?
 再渡仏する前に、「肺結核」の兆候が出ていました。そんな中での寸暇を惜しんでの制作活動。二度目のパリ在住8か月で、結核が悪化。さらに、精神不安定に。自殺未遂のあと、精神病院へ。精神病院で、祐三は「一切の食事を拒んだ」。もう結末は見えていた。衰弱による…死。
 祐三の筆の速さは、寿命を、「30歳」と、知っていたからではないでしょうか。

 祐三の絵、「どれか一点あげるよ」と言われたら、ミーハーなもので有名な、「郵便配達夫」にするでしょう。祐三は、「黄色いレストラン」と「扉」の2作品だけは自信があると言っていたそうです。「黄色いレストラン」は焼失してしまっています。
 郵便配達夫は、制服を着て椅子に座っているのですが、左に、微妙に傾いているのです。目は前述の通り、「カッ!」と見開いています。傾いている身体を右足が、ガッチリと支えています。この作品こそ、佐伯祐三の30年という短い人生を象徴したものではないかと思います。

 祐三は、自分の絵についてしばしば友人に問いかけ、芸術家としての自分自身を律していた…何と問いかけていたか…。
 「この絵は純粋か?」

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