アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

天誅組の変

2017年04月27日 | Weblog
この度の旅のメインは、高取城址へ行くこと。地元の人に、「どうして?どうして遠路はるばる高取城址へ?」と、いぶかしがられました。で、少々、おさらいを…。

 高取藩(今の奈良県)江戸留守居役家老「草川太忠(くさがわたちゅう)」は、天誅組が高取城を攻めると知って、早籠で江戸から駆けつけたぁ。この草川太忠が私の曾祖父。高取に着いた時には、天誅組は退散しており乱は治まっていた。  
高取城は日本の三大山城(美濃岩村城、備中松山城、大和高取城)の一つで、標高584メートルの高取山の頂にある。1863年8月26日に天誅組が高取城を攻めたわけですが、太平の世に浸かりきった連中に、山城を攻める技術などあるはずがなかった。なにしろ、田んぼの畦道を一列に並んで攻めて来たそうです。また、山頂までの道も細く長く斜度がきつい。大砲を撃たれ、びっくりして逃げ出したそう。この天誅組の変、犠牲者は天誅組の2名のみ。この2名は、逃げる際に転んで、逃げ惑う味方に踏まれて亡くなった。轢死というべきか圧死というべきか…そりゃないだろうというべき戦死の仕方です…。
大砲の直撃をくらった天誅組の兵士は、鉄鍋をかぶっていたのが幸いし、2日間の耳鳴りで済んだという。直撃で耳鳴りだけ…これは凄い!なんとものどかな戦です。
 曾祖父草川太忠、「御家の一大事に早籠で江戸から、高取まで駆けつける…」3~4日はかかったでしょう。これまたのどかなものです。乱は治まったが、残党が不穏な動きをしていたので、剣の達人でもあった太忠はしばらく高取に滞在した。天誅組が完全に壊滅したのは9月24日の鷲家口村の戦闘でした。
太忠が江戸へ戻るにあたり、城主(植村家保:いえもり)は、遠路駆けつけた褒美として、柿をたくさんもたせてくれた。息子の為之介(ためのすけ、私の祖父)は、柿をたらふく食べた記憶がある。量が多かったので、干し柿にもした。為之介にとって父親、「太忠」は、天誅組に早籠で立ち向かおうとした英雄であり、尊敬できる人物であり、甘い甘い柿と、さらには干し柿さえもたらした、絶対の存在であったことは間違いない。この時代父性は、厳然として存在した。

 1868年(慶応4年、明治元年)草川太忠は、高取藩の「参政」に任ぜられ、さらに「東京公用人」を兼務した。江戸は、東京と名称変更された。
 その後の藩政の改革で、家禄は9割減となった。廃藩置県で、高取藩は高取県となり、さらに奈良県となった。
 1871年(明治4年)末。太忠の勤務する東京出張所は閉鎖された。追い打ちをかけるように、武士階級の特権を剥奪する諸制度の改革が相次いだ。草川家は凋落の一途をたどることになる。

司馬遼太郎の短編に、「おお、大砲」というのがあります。天誅組の変のことが書かれています。曾祖父の太忠は、「おお、大砲」には登場しませんが、影を感じます…。 
 1873年(明治6年)私の祖父、草川為之介は19歳になっていた。1月に徴兵令が公布された。政府は、20歳以上の男子を兵籍に入れ、3年間兵役に就かせることにした。草川家に代人料270円(現在の相場に換算して約200万円)を支払うことができれば兵役は免除されるのだが、残念ながら草川家にそのようなお金は無かった。
為之介は、徴兵を忌避し、新天地を求め北海道へ渡った。
と、まあ我が家にはこのような歴史がありまして、太忠さんの足跡を辿ることは出来ませんが、高取城址へ行けばご先祖様が吸った空気を吸い、見た景色を見ることが出来るかな…そんなわけで、是非高取城址へ行きたかったわけです。