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ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

日記詩 「ウリハッキョの藤」  (バイリンガル)

2013-04-25 20:25:26 | 詩・コラム
 


 「ウリハッキョの藤」

         
ねぇ そこのあなた
下ばかり見ないで
ほら わたしを見て!

嵐のように雨風が吹き荒れたけど
凍るような冬にも耐えて
わたしは今年も咲きましたよ

負けないで!
あなたも頑張れる きっと!

いくら冬が無慈悲でも
春を止めることはできなかったでしょう?

子供たちの元気な歌声が
エネルギーをくれましたよ 今年も

薄紫の小粒の花をいっぱいつけて
そよそよ 春風に揺れながら

運動場を走り回る子供たちを
見守っていますよ 今日も!

  


  「우리 학교의 등나무」


저기요
아래만 보지 말아요
자 나를 보라요!

광풍같은 비바람이 몰아쳐도
얼어붙을것만 같은 겨울도 이겨내여
올봄도 피였어요 난

지지말아요!
당신도 할수 있어요 반드시!

아무리 겨울이 무자비해도
오는 봄을 막지 못했지요

아이들의 힘있는 노래소리가
새힘을 주었어요 나에게도

연보라색 작은 꽃잎을 알알이 달고서
살랑살랑 봄바람에 설레이면서

운동장을 뛰여다니는 아이들을
지켜볼거에요 오늘도!







 
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昨年の連休に訪ねた明石の「ぼたん寺」(薬師寺)です。

2013-04-25 14:09:53 | お出かけ

  *昨年訪ねた明石の「ぼたん寺」です。時間のある方は連休に是非お出かけください。

 



 色とりどりの牡丹が一杯です。

 



 



 



 



 



 ボタン寺を出た後、近くの地酒屋によりました。

 



 地酒屋に売っていた可愛い小物をいくつか購入してお店を後にしました。残念ながら試飲はしませんでした。

 運転してくれている主人に悪いと思って、地酒屋を後にして、そこからすぐ近くにある住吉寺に行きました。

 こちらが又素晴らしい!

 



 ちょうど子供たちが藤の冠をつけて能を披露していました。



 



 たくさんの藤を楽しんだ後、お寺の外に出るとそこは瀬戸内海とつながっていました。

 



 



 後ろ髪をひかれながら住吉寺を後にしました。
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第50回「火曜日行動」と初めての日朝焼肉交流会

2013-04-23 20:32:32 | 火曜日

 4月23日火曜日12時から、大阪府庁前で50回目の「火曜日行動」が行われました。

 今日は50回目ということもあって、大変多くの方々が行動に参加されました。いつもこうだったらどんなに良いだろうかと思いました。

















































 ここでハプニングがありました。故 高仁鳳さんの親友で告別式の日弔辞をされ、「高仁鳳さんを偲ぶ会」を企画され私も呼んでくださった朴チョンテさんが突然府庁前に現れたのです。

 ビラを配っていたら横で友人が「ニョニョさん、誰か知らないけどこっちに向かって写真撮ってはるよ。」

 「ええ?!」

 又在特会でも現れたのかと緊張した私は、すぐ横を向いてレンズの枠の中に入らないようにしました。道路の向かい側から写真を撮っているようですが、顔は全く見えず黒い帽子をかぶっています。ドキドキしながらビラを配っていたら急に声が聞こえてきました。

 「ニョニョさん、朴チョンテですよ。」

 「朴さん?!」

 確かに見覚えのある顔です。驚きを隠せずにいたら、今日50回目の「火曜日行動」だということを知っていたので様子を見に来たと仰いました。

 ほっとした私は、朴さんも一緒に行動しようと言いましたが、仕事の途中で抜けてきたので会社に帰らなければと仰いました。

 仕方がないのでそれ以上は勧めなく又機会があれば一緒に行動する約束をして別れました。

 家に帰って見るとパソコンに写真が送られてきていました。





 朴さん、「火曜日行動」に関心を持っていただきコマッスムニダ。いつかきっと一緒にビラ配りしましょうね。



















 1時きっかりに「火曜日要請行動」は終わり、みんなで大阪城ホール前のバーベキュー広場に歩いて向かいました。



 自己紹介を兼ねて日朝交互に一言ずつ挨拶しました。





















 私の順番が来ました。私は挨拶はせず、「火曜日行動」の中で生まれた10編の詩の中で2編を朗読させていただきました。


 
 「あなたの涙を忘れない」

                   
毎週この場所で会うようになって
もう何か月が過ぎたでしょう

梅雨空のじめじめした日も
カンカン照りの夏の日も
紅葉まばゆい秋の日も
ずうっと一緒でしたね

でもあなたの涙を初めて見ました

あなたは朝鮮の子供たちを想って
涙を流してくれましたね 今日
あまりにも理不尽な差別に怒り
朝鮮の子供たちに申し訳ないと
涙ながらに訴えて下さいましたね

日本人のあなたと 朝鮮人の私
私たちは今日 真の友になりました
垣根は涙と共に流れゆき
熱い想いで 一つになりました
  
有難う 平田さん
あなたの涙を決して忘れない
あなたのその涙は 必ずや大阪府民の
いいえ すべての人々の胸を
やさしく溶かしてくれるはずです

共に歩むこの道が
笑いに溢れ 希望に満ち
すべての子供たちの幸せに繋がるよう
手と手を取り合いましょう
心温かき わたしの友よ!  



「この坂道を上れば」
    


この坂道を上れば
希望が見えると信じ

雨の日も
風の日も

カンカン照りの日も
警報が鳴り響いた日も

毎週 向かった 府庁前に
当然な学びの権利を取り戻すため

息を切らせ ハァハァ言いながら
老体に鞭打ち 自転車を走らせた
 
この坂道を上りきれば
未来が開けると信じ

1,2 1,2 心に声掛けながら
一生懸命上った ペダルを踏み続けた

道のりは遠い
上っても 上っても

終点が見えない
でも上り続けなければ

希望を捨てることはできない
未来を閉ざすことはできない

大勢の仲間たちの声が聴こえる
早くおいでと呼んでくれる

その声に励まされ その声を信じ
今日も果てしない坂道を上る



 挨拶が続きました。





































 歌を歌います。踊りだす人もいます。この歌が、この踊りが勝利の歌なら、踊りならどんなに良いでしょう。





 楽しかったひと時があっという間に過ぎ去りました。又行動が続きます。でも元気が出てきました。連続して観た数々のイベントや今日の交流会が元気の源です。

 森之宮駅まで行かれる日本の友人4人を駅まで送りながら森林浴をしました。

























 噴水が見えてきました。みんなで写真を撮ろうと言っていたら、長崎さんらがそばを通って行かれました。

 
 長崎さんらにも声を掛け近くにいた方々全員で写真を撮りました。





 駅が見えてきたところで5人でコーヒーを飲みに行くことになりました。駅を越えたところにクラシックな喫茶店があります。

 横道さんがみんなにホットケーキセットを御馳走してくださることになりました。ショートケーキセットは一つしかありません、子供の様にはしゃぎながら、じゃんけんをして決めました。いつまでたっても嬉しがりな私たちです。



 美味しい美味しいコーヒーとホットケーキをいただきました。

 さぁ、明日から又頑張ろうっと!

コメント (4)
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故 宋華鐘先生の告別式に行ってまいりました。

2013-04-22 13:40:26 | 日記



 統国寺に於いて 故 宋華鐘先生の告別式が厳かに行われました。

 御一人,御一人旅立たれます。

 寂しい気持ち押さえ切れずにいたとき、スニムが要旨、次のように仰いました。

 「肉身は土に帰り、血は水に帰り、気運(魂)は風になり自然に帰るので悲しむことは無い。」と
 
 仏教の教えとはいえ、心休まるお話でした。

 喪主が云いました。現役から遠ざかって10数年にもなるのにアボジを同志と呼んで下さったこと、本当にうれしいと。

 故人はご自分だけではなく、ご子息たちもお孫さんたちもみんな民族教育の最前線で活躍できるように導かれました。

 車椅子に乗ってでもいろんな支部の行事や学校の行事に参加されていた御姿、いまも目に浮かびます。

 故 宋華鐘先生、安らかにお眠り下さい。



(お孫さんたちが通った学校)


 帰り道、天王寺植物園の横を通りました。青空も心なしか寂しそうでした。











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コラム 「4・24の歌」を聴くたびに

2013-04-19 11:44:05 | 詩・コラム


「4・24の歌」を聴くたびに

                        

 もうすぐ「4・24」の日から65年になります。
 「4・24の歌」を聴くたび思い出すのは初級部時代です。初級部時代にこの歌を初めて習いました。

 「4・24」教育闘争が行われたその年に、青森の片田舎で生まれた私は、北海道、東京、京都、大阪と転々と引っ越しを繰り返したため、幼いころの楽しかった思い出がほとんどありません。

 大阪に引っ越した年に学齢期に達した私は、兄や姉と一緒に家から一番近かった尼崎市立園田小学校分校(のちの園田朝鮮初級学校)に1955年4月に入学いたしました。
 園田朝鮮初級学校は1945年9月小中島国語講習所から出発し、その翌年の2月8日に園田初等学院に改名、阪神教育闘争が行われた翌年の1949年10月には強制的に閉鎖させられましたが、1953年に復校いたしました。
 その2年後に私は園田のウリハッキョに足を踏み入れたのですが、名の通り日本の小学校の分校だったので、先生も日本の先生と朝鮮の先生が半々で、担任の先生もお二人でしたが、ウリハッキョでの思い出は楽しいものばかりです。



 園田のウリハッキョはとても穏やかな場所にありました。阪急園田の駅から15分ほど歩いて行くのですが、住宅の立ち並ぶ道を通り過ぎると土手が現れます。遠くには六甲山が見え、藻川が悠々と流れています。鉄橋を渡り左に曲がると神崎川に向かう土手道に繋がりますが、私の学校は土手の下にありました。土手で寝転んだり、スイスイという雑草を口にしたり、ヨモギを採って家に持ち帰ったりもしました。学校の周りには朝鮮があり、いつもキムチの匂いが漂い、同胞たちの笑い声や喧嘩している声などが聞こえていました。

 6年生のときで生徒数98名でした。なぜこの数字が記憶に残っているかというと、6年生の時私は園田の初代女団委員長(生徒会会長)だったからです。
 女団委員長はそれから3代続きました。(2代目は兵庫で定年の日まで教員をされた梁貞順先生、3代目は文芸同中央書芸部長の李裕花さん)

 毎朝朝礼の時、先生方が来られるまで、私が98名を並ばせるのですが、マイクもないため、大きな声で怒鳴ってばかりいたから、声がつぶれてしまいました。(本当はソプラノだったのに、のどがつぶれ高音の出ない太いバスのようなアルトになってしまいました。)

                             

 運動場が狭くて、運動会は近くのお寺の大きなグランドをお借りして行っていました。学芸会は本校の講堂を借りて行っていました。
 雨が降れば教室のあちこちにバケツを置きます。でも学校が楽しくて楽しくて、嫌な思い出なんて一つもありません。先生方も優しくてウリマルがとても上手で、野生の猿のように天真爛漫な初級時代をこの地で過ごしました。

 3年生の時に祖国から初めて教育援助費が送られてきました。5年生の夏、キャンプが行われた阪神初級近くの香枦園の海で泳いでいるとき、祖国への帰国のための調印がジャカルタで行われたというニュースが入り、浜に上がって一晩中キャンプファイヤーを灯し歌い踊り明かしたことなど、感動したお話は数えきれません。いつだったかは覚えていませんが「4・24」のお話を初めて聞いたのも「4・24の歌」を習ったのも園田でした。その日の衝撃はこの歳になってもしっかりと胸に刻まれています。金太一という少年の名と共に!



 私の母校―園田は、1966年、私が高級部2年生になった年に自主学校にやっとなりましたが、それから20年後、立花初級と統合され尼崎東初級になり、2008年にはその学校も尼崎朝鮮初中級学校に統合されてしまい、園田という名前は消えてしまいましたが園田のウリハッキョで培った民族愛は心の柱となり今日まで私を支えてくれました。ウリハッキョはまさに心のふるさとになりました。

 「4・24」を迎えながらいろんなことを考えています。今の時代がなんと65年前のあの頃と似ているだろうかと。
 毎週,大阪府庁前で「民族教育の権利」を守り、無償化実現のため、助成金の交付再開のため要請行動を行っていますが、なんら進展されたものはありません、しかしこの運動の中で日朝の連帯は深まり、ウリハッキョを守るため命を懸けた先達たちの魂が自分の心にも乗り移っていることをひしひしと感じています。諦めは敗北です。民族教育は生命のように大事な宝物です。
 金太一青年が眠る墓地には行けませんが、彼が戦った大阪府警、大阪府庁前で最後まで戦い抜くことを誓います。4月23日が「火曜日行動」50回目の日です。

             2013年4月19日

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