ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

教え子の詩が掲載されていました。 「私の口にぴったり合うの」

2013-02-27 08:05:46 | 詩・コラム



 昨日の朝鮮新報4面に、中級時代のお教え子の詩が掲載されておりました。

 とても嬉しくて勝手に訳をつけました。お読みくださいね。とても素朴で素敵な詩です。


 「 내 입에 딱 맞아」      「私の口にぴったり合うの」

오사까조고 박지가        大阪朝高 パク・チガ

아직도 잊지 못해          今も忘れることができない
내 입에 딱 맞은           私の口にぴったり合った
조국의 사과즙           祖国のリンゴジュース

일본의 사과즙도 좋지만       日本のリンゴジュースも好きだけど
달콤하고 소박한           甘くて素朴な
조국의 사과즙이 난 더 좋아     祖国のリンゴジュースが もっと好き

그 사과는 고난의 행군 이겨낸    そのリンゴは苦難の行軍に打ち勝った
인민들의 눈물 어린 사과      人々の涙の沁み込んだリンゴ

강성대국 부름따라         強盛大国建設の呼びかけに応じ
대동강과수농장 단숨에 꾸려놓은   大同江果汁農場を一瞬に立ち上げた
조국인민들의 정열 깃든 빨간 사과  祖国人民の情熱がこもった赤いリンゴ
그래서 이리도 맛이 좋은거라네   それでこんなにも美味しいんだね   

일본의 사과즙 맛도 좋지만     日本のリンゴジュースの味も良いけど
우리의 힘으로 만든 사과즙     私たちの力で作ったリンゴジュース
인민들의 정열 깃든 사과즙이     人々の情熱がこもったリンゴジュースが    
내 입에 딱 맞아!          私の口にぴったり合うの!

2013/2/25 조선신보 4면       2月25日の朝鮮新報4面掲載


               
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2月26日、42回目の「火曜日行動」と久々のハルモニ宅訪問

2013-02-26 14:45:12 | 火曜日
 

今朝、6時過ぎにリファが熱を出したと嫁から電話がありました。

 今日が火曜日であることを知っている嫁は、必ず11時半までにはお迎えに来ると言って、リファを家に連れてきました。

 とても元気そうです。来た早々「ハンメ、トランプしょう」と言いながら表を作り始めました。

 約1時間トランプをしました。3対3で引き分けです。

 おやつの時間です。リンゴが良いというのですりリンゴを作っている間に熱を測るように言いました。

 なんと、朝、7度8分だったそうだけど39度もあります。それでもすりリンゴを食べるというので食べさせて、すぐ氷枕をして寝かせようとしました。本を読んでというので5つだけ読みました。



 目をつむりながら聞いてね、と言うと、そうしました。5つ目が終わるころすーっと寝ました。

 1時間ぐらい寝ている間に用事を片づけ、嫁が来たらすぐ出れるように準備をしました。

 11時半きっかりに嫁が仕事先から帰りました。熱の事を話すとすぐに病院に予約をしました。リファを起こして又熱を測ると寝起きのせいか39度3分ありました。

 リファたちは病院に、私は府庁前に、同時に家を出ました。(夜、連絡してみるとインフルエンザB型だったそうです。これで、今年に入って孫4人がインフルエンザにかかりました。外孫はA型、内孫はB型です。もし私がかかったらA,Bどちらに感染するのでしょうか?幸い今日までは感染していませんが。残るは5歳のユファだけです。)



 ダッシュで走り府庁前到着です。今日も大勢の方々が参加されました。始まる前、土曜日に行われた北大阪と南大阪の公演の話でもちきりでした。とても嬉しかったです。

 「火曜日行動」の始まりです。今日は皆さんの表情がとても穏やかな感じがしました。















































 冷たい大阪府庁にも梅は平等に咲いていました。









 帰り道、本当に久しぶりに一人暮らしのハルモニ宅を訪問しました。孫たちが交代でインフルエンザにかかったので、お年寄りに感染させてはいけないと思い遠慮していたのです。ハルモニは今年88歳になりました。

 ハルモニは大層喜ばれ、寒かっただろうと、昨年末、東成支部からのお歳暮だった柚子茶を入れてくださいました。なんとサツマイモまで出してくださいました。





 私が長い間訪問しなかったのでいろんな想像をされたそうです。

 ①一度用事があって火曜日に留守をしたことがあったので、その日、訪ねてきていなかったから、もうこなくなったのかなぁ?

 ②彼女はひょっとして介護ホームや老人ホームの勧誘の仕事をしているのかなぁ?

 ハルモニに、二つとも違いますよ。と笑いながら伝えました。

 今日ハルモニは30分間おひとりで喋り続けられました。主にはお孫さんの話でした。

 息子さんが亡くなった後、お嫁さんが子供を連れて再婚したので、お孫さんの姓が変わったこと、それでもお孫さんが大きくなって自分の結婚式に参加してほしいと訪ねてきたこと。

 結婚式に参加するのは躊躇われたので、お祝い金を持たせたことなど、昨日の事のように話されました。もっとお話を聞きたかったけど時間です。又来ます。と言って家を出ました。

 お年寄りが一人で暮らすということは本当に大変です。今日お話の中でハルモニは、もし私が動けなくなったら東成病院に連れて行ってくれと仰いました。また、完全に介護が必要になれば福祉課を通じて入りたいホームを考えてあるので、そこに連絡してほしいと仰っていました。

 私のできるかぎり、お手伝いさせていただこうと思いました。お墓で巡り合ったハルモニ、本当に不思議な縁です。

 帰り道、家の近くまで来ると梅がとても可愛く見えたので写真を撮りました。













 学童から帰って外孫たちに食事をさせた後、演劇口演部の練習日だったので、すぐに家を出ました。雨が降っていたので中大阪まで歩いていきました。練習中は楽しくて疲れを忘れていたのですが、家に帰るとドドット疲れが出てしまい、早い目に寝床に着きました。

 ブログへの書き込みは今朝しました。ごめんなさい。





(27日9時のお月様)
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いよいよ明日6時 北大阪「チェジャリ」公演が行われます。

2013-02-22 09:25:08 | 詩・コラム


 明日2月23日、新大阪のメルパルクホールに於いて

「北大阪朝鮮初中級学校創立55周年記念公演ーチェジャリ」が行われます。

 1幕 草創期の部分のナレーションを書かせていただきました。6年生の皆さん方と共に朗読させていただきます。

 朗読はウリマルでしますが対訳を掲載してみました。

 未熟ですが北大阪のウリハッキョの歴史を伝えるのに少しだでも役立ってくれることを願い掲載いたします。

 たくさんの皆さんのご来場を切に願っています。朗読は6時に始まって間もなくいたします。


                   


(対訳)


 「チェジャリ」(自分の場所)


55年の歳月が川のように流れました

日本で生まれ育った子供たちが
心のふるさとと呼ぶ 「ウリハッキョ」!

まさに 北大阪朝鮮初中級学校は
同胞たちの血と汗と涙で築き上げた
温かい「ゆりかご」、大切な宝物なのです

嬉しい時も苦しい時も 探し求める所
私たちみんなが 心に抱き生きる
永遠の拠り所 「チェジャリ」なのです

    X      X     X 

1945年8月15日
亡国の苦しみから解き放たれた1世同胞たちが
解放の喜びを胸に 最初に始めたことは
後世のための学び舎「国語講習所」の開設でした

「奪われた民族の魂を取り戻すため
 子供たちにウリマルとハングルを学ばせよう」

此処 北大阪の地にも
高槻や東淀川、豊能朝鮮学院で
数百名の朝鮮の子供たちが学び始めました

校舎はみすぼらしく机一つまともな物は無かったけれど
自国の言葉と文字を学ぶ 喜びに溢れていました
自国の歴史と文化を学び 雄々しく育って行きました

しかし 1948年4月 身を切るような風が
草創期のウリハッキョに吹き荒れました

日本の反動たちは 校内に消防車まで引き入れ
学生たちと同胞たちに冷水を浴びせたばかりか
1949年 強制的にウリハッキョを閉鎖しました

だが同胞たちは 嘆いてばかりはいませんでした
祖国の温かい日差しを全身で感じながら
同胞たちは また 学校を築き始めました

そうして 1957年4月1日
遂にわが北大阪初中級学校の前身である
東淀川朝鮮初級学校が創立されたのです

驚いたことに その1週間後 
戦後の復旧建設に拍車を懸けていた祖国から
教育援助費と奨学金を送られてくることを
誰が予想しえたでしょうか

祖国の配慮に限りなく励まされた同胞たちは
1959年8月に学校建設委員会をつくり
翌年3月に 木造2階建ての校舎を建設したのです

そればかりか 4月には中級部を併設し
その年1960年5月には その名も誉れ高い
北大阪朝鮮初中級学校が誕生したのです。

「1番良いものを子供たちのために」との
主席の偉大な教えを高く掲げ
1963年7月には大きなプールも作りました

そればかりか 共和国創建20周年を記念して
同胞たちは「100日間革新運動」を力強く押し進め
鉄筋校舎建設に起ちあがったのです

「力のある人は力を、知識のある人は知識を、
 お金のある人はお金を出して
 この地に誰もが羨むような鉄筋校舎を建てよう!」

「一つの分会で一つの教室を作る運動」が
2教室、3教室作る運動に発展し
同胞たちの熱意は高まるばかりでした

国を奪われたために
見知らぬ異国の地に引っ張って来られ
牛馬よりも過酷な人生を歩んだ同胞たちが

自国の言葉も知らず歴史も知らねば
またもや国を奪われてしまうと
あらゆる犠牲を乗り越え学校建設を押し進めました

1968年1月18日 ついに
新幹線が見える上新庄の真ん中に
地上を見渡すように4階建ての鉄筋校舎が
にょっきり そびえ立ちました

階段を上り下りする足取りも軽やかに
皺だらけのお爺さんやお婆さんの顔にも
幼いちびっこたちの顔にも
幸せの笑みがこぼれました

新校舎を見回す同胞たちの目からは
感激の涙があふれ
昨日までの苦労が吹き飛んだように
喜びに溢れました

同胞社会の宝であり
いつでも私たちを待ってくれている
心のよりどころ―「チェジャリ」を築き上げたのです


         *チェジャリー自分の場所




-기다오사까조선초중급학교 창립 55돐기념공연-

<제자리>

제 1막

3期生女  55년의 세월이 강물처럼 흘러갔습니다

일본에서 태여나 자란 아이들이
마음의 고향이라 부르는 우리 학교!

바로 기다오사까조선초중급학교는
동포들의 피와 땀으로 이루어진
포근한 요람이며 소중한 보물이거니

기쁠 때나 어려울 때나 애타게 찾는 곳
우리모두가 마음에 품고사는
영원한 <제자리>입니다

    X X X

3期生男  1945년 8워15일!
망국노의 설음에서 벗어난 1세동포들이
해방의 기쁨을 안고 처음 시작한것은
후대들을 위한 배움터 <국어강습소>였습니다

“빼앗긴 민족의 넋을 되찾기 위해
아이들에게 우리 말과 글을 배우게 하자 “

이곳 기다오사까 관하에서도
다까쯔끼며 히가시요도가와 도요노 조선학원에서
수백명의 조선아이들이 배우기 시작했습니다

비록 교사는 초라하고 책상하나 변변치 못해도
제나라 말과 글을 배우는 기쁨이 넘쳐났습니다
제나라 력사와 문화를 배우며 씩씩하게 자라났습니다

男生徒① 허나 1948년 4월 모진 칼바람이
초창기의 우리 학교를 부스려 몰아쳤습니다

일본반동들은 소방차까지 끌어들여
학생들과 동포들에게 찬물을 퍼부었으며
1949년 강제로 학교를 페쇄하고야 말았습니다

女生徒① 그러나 우리 동포들은 주저앉기만은 안했습니다
조국의 따사로운 해살아래 총련이 무어지자
동포들은 또다시 학교를 꾸리기 위해 나섰습니다

女生徒② 그리하여 1957년 4월초하루
드디여 우리 기다오사까초중의 전신인
히가시요도가와조선초급학교가 창립된것입니다

女生徒③ 어머니조국에서는 놀랍게도 그 1주일후
전후복구건설을 다그치던 그 어려운 속에서
교육원조비와 장학금을 보내주시였으니
우리 어찌 감격하지 않을수 있었겠습니까

男生徒② 조국의 사랑에 무한히 고무된 우리 동포들은
1959년 8월에 학교건설위원회를 조직하여
다음해 3월초에는 목재 2층교사를 세웠습니다

女生徒④ 또한 4월에는 중급부를 병설하여
그해 1960년5월에는 그 이름도 자랑찬
기다오사까조선초중급학교를 선포하였습니다

女生徒⑤ “제일 좋은것을 어린이들에게”라 하신
수령님의 위대한 교육사상을 높이 받들고
1963년 7월에는 수용장을 꾸려놓았습니다

뿐만아니라 공화국창건스무돐을 지향한
<100&#51068;&#44036;&#50868;&#46041;>을 힘차게 벌려
꿈과 같이 철근교사건설에 떨쳐나섰습니다

男生徒③ “힘있는 사람은 힘을, 지식있는 사람은 지식을,
돈있는 사람은 돈을 내여
이땅우에 보란듯이 철근교사를 일떠세우자!”

<한 분회 한 교실짓기 운동>이
두 교실,세 교실 짓기로 발전하고  
동포들의 열성은 높아만 갔습니다

3期生女  나라를 빼앗긴 탓으로 하여
산설고 물설은 이역땅에 끌려와
마소보다 더한 고생을 다 겪은 동포들이

자기 나라 말과 글을 모르고 력사를 모르면
또다시 망국노의 신세를 겪게 된다고
온갖 희생 무릎쓰고 학교건설에 떨쳐나섰습니다

3期生男  1968년1월 18일 드디여
신칸셍이 바라보이는 가미신죠 한복판에
온 세상을 굽어보듯 4층철근교사가 
우뚝 솟아났습니다

生徒①   계단을 오르내리는 발걸음도 가벼이
生徒②   주름잡힌 할아버지 할머니의 얼굴에도
生徒③   어린 꽃봉오리들의 얼굴에도
生徒④   행복의 웃음꽃이 활짝 피여났습니다

生徒⑤   새 교사를 둘러보는 동포들의 눈에선
生徒⑥   감격의 말대신 이슬이 반짝이고
生徒⑦   어제날의 고생도 다 풀린듯
生徒⑧   안도의 숨이 흘러나왔습니다

全員    동포사회의 보물이며
그 언제나 우리가 돌아갈수 있는
마음의 요람,  <제자리>가 꾸려졌습니다!


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孫日記詩 「ボケボケ ユファちゃん」

2013-02-21 22:49:05 | 詩・コラム
昨年の詩です。笑ってください。今年はちゃんとできましたよ。
 


「 ボケボケ ユファちゃん 」

          

待ちに待った
保育園の生活発表会

オープニング
組代表の挨拶に選ばれたそうな

ついに幕があいた
あ!ユファとクミちゃんが真ん中だ!

ちゃんとできるかな?
期待とどきどきで胸いっぱい

《クミちゃんのオンマ きてるで。》
《どこどこ?》
《ほーらあそこ クミちゃんのオンマや!》

御挨拶なんか どこ吹く風
ふたりで喋ってる間に幕がおりた

わははは おほほほ 笑いの渦
今のなに? オオボケコボケや 

きっと大物になるよ
ボケボケ ユファちゃん

           (2・26)



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昨年の今頃こんなコラムを書いていました。「楽しい1日はあいさつから」

2013-02-21 10:06:05 | 詩・コラム
 昨年の今頃こんなコラム書いていました。

コラム⑩ 「楽しい一日は あいさつから」                     
 

 今朝、リファの家に向かいながら、中大阪朝鮮初級学校の外壁を改めてじっくり見ると「楽しい一日は あいさつから」、「OH! HA!」、ハングルで「즐거운 하루는 인사로부터」という標語と共に、可愛い女の子がニコニコ笑いながら挨拶をしあっている絵の看板が掲げてあった。初めてみたわけではなく、ずっと以前からあったが、じっくり見る心の余裕が無かったのだ。



 もしやと思い帰り道、東中浜小学校、東中本小学校の外壁を見に行くと、全く同じ標語と絵の書いてある看板が外壁に掲げてあった。違いといえば日本の学校にはハングル文字がないということだけだった。

 私はなんだか嬉しくなって、携帯で写真を撮ったりぐるぐる回りながら、何回も何回も眺めたりしていた。他人からは怪しい、変なおばさんと映っていたかもしれない。

 朝鮮学校は学校と認めないなんてどこの誰がいうの?学校だから東成区の教育促進委員会はウリハッキョの外壁にも、日本の学校と同じ標語の書いた看板をかけたのではないのだろうか。

 近所の人たち誰に聞いても、ウリハッキョを学校じゃないと思っている人なんて、ひとりもいないと思う。唯一、心のひん曲がった人たちだけが騒いで、助成金をカットしたり、差別したりしているのだ。


 バスに乗って、電車に乗って、朝早くからウリハッキョの子供たちは学校に通う。学生たちよりも早く先生方、バスの運転士さんは出勤して、スクールバスに乗り込み、子供たちを迎えに行く。雨の日も風の日も。

迎えに来てくれた先生方はにっこり笑いながら、子供たちを温かい挨拶で迎えてくれる。「アンニョンハセヨ!」、子供たちも元気に答える、「アンニョンハセヨ!」

こうして挨拶から子供たちの楽しい一日が始まるのだ。

某中学校の前を通ったら先生方が大勢外に並んで,登校してくる学生たちに大きな声で<おはよう!>と声をかけていた。なのになぜだろう、学生たちが全く反応しないのだ。ニコリともせず、声も出さず、頭をちょこっと下げるだけだ。まだそれもましだ。知らん顔して通り過ぎる学生もいた。胸が痛かった。日本学校の先生方も大変だなぁとしみじみ思った。

いつもニコニコ笑いながら、大きな声で挨拶しあった東大阪朝鮮中級学校の学生たちが、無性に恋しくなった朝だった。
        
(2012・2・24)
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