ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

旅日記④ (再掲)おわり

2013-04-06 11:39:15 | 旅行
旅日記④ 津和野、長門峡、広島で (2012・4・9)

 4日、お天気は晴天、雲ひとつ無い。昨日の暴風が嘘のようだ。旅の疲れが全く無い。移動は勿論野樹さんちの車だが、名所名所でどれほど歩いたかわからないのに心がリフレッシュされ全く疲れを感じないのだ。

 津和野に行った。まずは五重の塔のある瑠璃光寺だ。五重の塔と周りの景色との調和があまりにも美しくてしばし池の辺りの岩の上に腰掛け、時を忘れぼーっと眺めた。春爛漫!日本にはこんなに素晴らしい所が一杯あるのだ。この世に居る間にどれほどの風景を眼に収めることができるだろうか。













 「綺麗ねぇ。」を連発しながら雲ひとつ無い空を見上げた。次に行ったのは長門峡だ。











 そりゃ心が洗われるはずだ。橋の名前が洗心橋だった。

 次に訪ねたのは森鴎外の生家と記念館だが記念館に高い入場料を払ってまで入るほどのファンはいなかったので外からだけ眺めた。









 津和野や萩の街並みは城下町を思わせる風情があった。ツワブキの料理で有名なお店に案内されたが残念、お休みだったので適当なお店でうどんを食べた。この街では鯉を放し飼いにしているがまるまる太りすぎて少し嫌だった。なんでも程々が良い。




                

 昼食後、「安野光雅美術館」に入り、安野さんの素晴らしい作品に触れた。作品のジャンルがとても豊富で源氏物語を絵画にしていると思えば小学生向きの挿絵や洋画もあり、あまりにもの素晴らしさに一体どんな人生を歩んで来られたのかに興味が湧き、河津さんと半分ずつ出し合って、自叙伝のような本を買った。





 そのあと、教室のような図書室で彼の作品が掲載された本を沢山見させてもらい、安野さんが自らナレーションをされたプラネタリウムでしばし時を忘れた。あまりにも気持ちが良くて、全員しばらく寝入ってしまっていた。

 全ての名所巡りが終わり広島に向かったのだが、友人たちとの待ち合わせまで時間が1時間以上あったので野樹さんちに寄って陸史君のピアノ演奏を聞かせていただくことになった。3歳のころから他人とのコミニュケをとるため音楽教室に通わせたそうだが、今はピアノ演奏がとても好きになって有名な「エリーゼのために」や「トルコ行進曲」を楽譜を見ながら勝手に弾けるようになったそうだ。

                 

 演奏は素晴らしかった。とても小学2年生が我流で弾きこなしたとは思えなかった。私は陸史くんは天才だと思う。私たちが写っている写真はほとんど全部、彼が撮影した。秋芳洞の案内の時も感じたが彼はきっと博士になると思った。

 広島ではメル友の原畑さんと産婦人科医の河野先生が食事会を開いてくださった。





 原畑さんは2010年11月21日「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」の広島朗読会で知り合い、その後一年間私の詩のブログを作って「ふるさとへの道 1,2」を毎日更新してくださった方だ。今年の1月5日に自分でブログ「ニョニョのひとりごと」を立ち上げるまで原畑さんのお蔭で毎日詩を書く楽しみを味あわせていただいた。

 河野先生は原畑さんのブログを通じて私の初めての日本語の詩「ふるさと」に触れられお知り合いになったばかりか、昨年11月27日ソウルでの朗読会にまで駆けつけて下さった方だ。広島ブログでは毎日ご本人のブログ「河野美代子のダイアリー」がダントツ人気ナンバーワンだ。

                   

 2時間ほどの間、楽しい食事会が続いた。河野先生は全国を回りながら性教育に関する講演を続けていらっしゃるばかりか最近は福島のお母さんと子供たちとの交流を深め、専門医の診察を受けさせたり食事の世話をされたり励まし続けていらっしゃる。本当に素晴らしいお医者さんだ。名残惜しかったが夜9時3分広島発の新幹線に乗って出発した。3日間の素晴らしい旅はきっと大きなエネルギーになるはずだ。お世話になった皆さま、本当にありがとうございました。(終)
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旅日記③ (再掲)

2013-04-06 11:37:16 | 旅行
旅日記 ③仙崎から北長門海岸国定公園へ 


 「沖千鳥」でウニ釜飯を美味しくいただいたあと、私たちは金子みすゞが20歳まで過ごしたという仙崎に向かった。街に着いて驚いたことは駅舎の中は勿論のこと、家の表札、ガレージでまでみすゞの詩や顔を見ることができたことだ。













 みすゞが20歳まで過ごしたという「金子文英堂」,みすゞが子供の頃、金子家は仙崎で書店を営んでいたそうです。二階では,みすゞの部屋を復元していました。みすゞはよくこの窓から通りを眺めていたそうです。





 この世の全てにあたたかい眼差しを向けたみすゞの作品は、多くの人の心に深い感銘を呼び、今、驚くほどの早さで日本中に広がっています。

  「星とたんぽぽ」

          金子みすゞ

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼に見えぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だぁまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

 みすゞは「若き童謡詩人の中の巨星」と称賛されましたが、二十六歳の若さで、自ら命を絶ち、いつしか「幻の童謡詩人」と語り継がれるようになりました。みすゞは自ら命を絶つ前日に、写真館で自分の肖像を写しています。下関の公園で前日に一緒に撮った写真がそれです。親から授かったと尊い生命を自ら絶つことは決して許されることではないと今も思います。     

 みすゞ記念館を後にして、強風の中北長門海岸国定公園に向かいました。天候のせいか、人影はまばらで椿の群生はほとんど散り、その代わり、桜が満開でした。













 大荒れの一日でしたが大満足の密度の濃い一日でした。(続く)
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旅日記② (再掲)

2013-04-06 11:35:19 | 旅行
旅日記 「下関・山口を旅して②」大荒れの山口で

 朝の9時、野樹さんご一家が私たちを迎えに来てくれた。夜中に大きな落雷があったそうだが、私は死んだように眠っていたので、☂が降っていたことさえ知らなかった。今日は朝から大荒れの空模様だ。中原中也記念館は私たちの宿舎からは目と鼻の先だ。歩いても2分ほどだった。








 中に入るとわざわざ館長が出てこられ河津さんと挨拶を交わされた。実は昨年河津さんが雑誌「環」に<幼獣―中原中也>という小論を発表したのだが、その中也論が掲載された雑誌を記念館に収めてもらうことになっていたのだ。お陰様で私たちまで無料で記念館を観覧することになった。ラッキー!

 中也は陸軍軍医であった父―謙介が中国の旅順に駐屯しているとき山口の家で、長男として生まれたが生後まもなく母フクに連れられ、父のいる中国の旅順に趣いている。2年後父の転勤により一家は広島に移ったのだが、3年後には又父の転勤で金沢に移った。そして中也が七歳の時、父が朝鮮に転任したため、母とその間生まれた弟3人と共に山口に帰ったのだ。その年の4月に中也は小学校に入学したがまもなく周囲から「神童」と呼ばれるようになったそうだ。

 驚いたのは立命館中学4年生―17歳の時、既に劇団の美人俳優であった長谷川泰子と下宿先で同棲していたことだ。泰子は次の年、詩友の小林秀雄の元へ去ったのだがその後も3人の奇妙な三角関係は続いたという。

 26歳で孝子と正式に結婚をし、27歳で長男文也が生まれるが文也は2歳の時、小児結核で哀れにもこの世を去る。奇しくも文也が亡くなった日―11月10日は私の誕生日でもあった。文也の死は中也に衝撃を与えた。中也はその年に神経衰弱になりその翌年30歳の若さで結核性脳膜炎を患い文也の後を追うようにこの世を去った。

 中也の周りには、小林秀雄、大岡昇平はじめ、高村光太郎や草野新平など後世に名の知れ渡った詩友たちが沢山いた。彼らがいなければ中也の詩500編余りが全て世に出たかどうかはわからない話だ。中也の人徳でもあろう。

 記念館のすぐ近くに彼と関連のある公園があった。彼の詩が彫られた詩碑の前で写真を撮り、しばし☂の中公園内で桜を見た。




 彼の詩の価値はよくわからないが私が感じたことは彼の詩はとても韻律が良いということだ。詩にリズムがあるのだ。すぐにでも曲をつければ歌になるなぁと内心思っていたところ,野樹さんの旦那様が車の中で彼の詩が歌になっていると言って「サーカス」はじめ、いろんな歌をCDで聞かせてくれた。

 記念館を出発して秋芳洞に向かった。40数年ぶりだ。歌舞団時代、山口で公演が会った時、この地の同胞たちが案内してくれたが、すっかり記憶がなくなっていた。今日の案内人は野樹さんの息子さんの陸史君だ。朝鮮文学にのめり込んでいた時代,大ファンになった詩人「李陸史」の名前をそのまま自分の子につけたのだ。

陸史くんは小学2年生だが並みの子供とは少し違う感性を持っている。大人顔負けの頭脳を持ちながらもアンバランスに行動は幼児なのだ。コミュニケが少し苦手なのだ。でも記憶力は半端じやない。2日前、先に秋芳洞に入り各名所で案内のテープを聞き全て覚えているのだ。彼の案内と解説を聞きながら鍾乳洞の中を歩き続けた。












秋芳洞を回りながら、この洞窟を見つけた人にはノーベル賞をあげなければならないね、なんて言いながら、心の中では秋芳洞も素晴らしいけど、我が祖国の「龍門洞窟」にはとても叶わないだろうなと一人自負心に浸っていた。

秋芳洞見学の後は待ちに待った昼食だが、外に出てみるとまるで台風だ。車で「浜千鳥」に向かったが何回も風で車が横揺れになった。到着すると日本海のすぐ傍に「浜千鳥」はあったが、あまりにもの強風で前に進めないのだ、何回も弾き飛ばされそうになりながらも、しっかり大荒れの日本海を写真に収めた。




待ちに待った「ウニ釜飯」(1,260円なり)をお腹いっぱい食べた。




 午後からは金子みすゞ記念館に行く。(続く)

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昨年4月、友人たちと山口、下関を旅しました。①(再掲)

2013-04-06 11:30:07 | 旅行
旅日記 「下関、山口を旅して①」

 「金子みすゞ、中原中也に会いに行きませんか?」という詩友ー河津聖恵さんのお誘いを受け4月2日から4日まで下関、山口を旅した。卒業式を迎えても朝鮮高校の無償化は実現されず、おまけに大阪府・大阪市の教育助成金がストップされる等、胃が千切れそうな思いで毎日を過ごしていた私にとって今回の旅は格別なものになった。広島在住の歌人野樹かずみさんご夫婦が案内してくださることになった。

 新大阪駅で私たちが乗った9時20分発の「さくら549号」は、11時34分に新下関駅に到着した。新下関駅では先に自家用車で到着していた野樹さんが改札口で待っていてくれた。挨拶もそこそこに在来線に向かって走った。その電車を逃すと30分をまたねばならないという。ハァハァしながら電車に乗り込んだ。10分ほどで下関駅に着いた。





 まず最初に案内していただいたのが日帝時代、関釡連絡船「君が代丸」が下関ー釡山を往来していたという埠頭だ。今は大きな船が行き来している。下関港国際ターミナルだ。




 そこには<성희(星希)>という名の
釡山行きの船が停泊していた。

 埠頭の中に入ることは禁じられていたため、仕方なく柵の中から写真を撮った。涙を流しながら故郷に別れを告げ、80年前父や母が一番最初にたどり着いた所がここだと思うとなぜか不思議な感じがした。

 埠頭に入れないため仕方なくその場を離れ、昼食をとるため「リトル釡山通り」に向かった。まるで釡山に来たかのような通りが延々と続いていたが人影はまばらだった。





 通りに着くとなんと歩道橋には4基も
エスカレーターが取り付けられたいた。

 食堂を探したが店はシャッターをおろし、12時半だというのに人の姿は見えない。やっと一軒営業中の札を見つけ入ってみると、焼肉店にも関わらず70すぎのおバァさんが「焼肉はできませんよ」と言う。勿論、焼肉なんて夢にも考えていない私たちは「ピビンバブ」できますか?と言って腰を下ろした。オバァさんは自分はパートだがお昼に来てみると、ご主人の奥さんがお墓参りに行っていないのでお釣りがないからお釣りが出ないように支払ってくれという。私たちは笑いをこらえながらピビンバブを食べたのだが630円のピビンバブはおかわりがしたくなるほど美味しいものだった。

 昼食後、通りを散歩しながら開いている店を覗いて見ると、品物が鶴橋より安いのだ。鶴橋で3足1000円で買った「ヨスルポソン」が5足千円で良いというのだ。考えてみたら下関の人はフェリで釡山に買出しに行くからそりゃ飛行機よりは船の方が旅賃も安いし荷物だって沢山運べるから鶴橋と同じ品物が安いはずだ。二人はヨスルポソンを買い半分ずつ分けていた。私は10足1000円の靴下を買った。色や柄がカラフルだった。まけてというとヨスルポソンを一つおまけでくれた。ラッキー!

 ずっと歩いているとなんと、朝鮮学校の制服作っていますというお店があった。私たちは嬉しくなって傍に近寄り店の中を覗いたり写真を撮ったりした。

 リトル釡山をあとにして向かったのは金子みすゞ詩人が悩みのあるとき良く訪ねたという光明寺だ。



 その近くの公園には金子みすゞの写真や詩が彫りこめられていた。




 迎えに来てくれた野樹さんの旦那様と息子さんと一緒に車で関釡橋に行った。海がとても綺麗だったが風が強くて髪がバラバラになった。





 船に乗って厳流島に渡ることにした。宮本武蔵と
佐々木小次郎の決闘した島だ。
ここも人はほとんどいなくて貸切状態だった。

 島から帰ったあと車で山口に入り、
ホテルに入る前にとても珍しい
瓦そばを食べに行った。




 とても変わった料理で熱々の瓦の上に蕎麦が乗せてあり、その上に牛肉、ゆで玉子、ネギがたっぷり乗せられていて、これらを独特なだし汁に付けていただいた。お腹の空いていた河津さんと私はオニギリを一個づつ注文して食べた。一人合計1,175円なりの夕食、大満足だった。スーパーホテルに入り、200円出して協定している隣の温泉に入り部屋に戻ると何も考える暇なくそのまま寝入ってしまった。目が覚めたのは早朝の5時だった。(続く)

 
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午後から雨嵐が来るというので見納めに大阪城公園に行って来ました。

2013-04-06 10:29:47 | 花たち



 今朝、新聞を取りに玄関に出てみると「姫リンゴ」の花が綺麗に咲いていました。







 気象情報を見ると午後から大雨が降ると言っています。火曜日に大阪城公園を通った時は桜が満開だったのですが、今日の雨で全て散ってしまうだろうな、と思うとなんだかもったいなくて寝屋川まで歩こうと思いましたが大阪城公園へと進路を変えました。

 噴水の近くに鮮やかなローズピンクの花が咲いていたので近づいて見るとバラ科で「キクモモ」と書いてありました。















 つつじの花も蕾を膨らませ今か今かと出番を待っていました。





 わぁ、桜の花が散ってまるでじゅうたんの様です。

























 火曜日の半分ぐらいしか花は無く黄緑の葉っぱが出ていました。











 黄色い花も可愛く咲いて桜に寄り添っています。











 どんどん行くと府庁前まで行ってしまうので教育塔の近くでUーターンです。





















 「綺麗なぁ、だけど花の命は短いなぁ」なんて思いました。













  ここからは穴場です。人口ですがこの時期だけ水が流れて川のようになり川には散り落ちた桜の花びらが流れて行きます。本当に素敵!映画のワーンシーンの様です。



























 教育塔の近くではつつじがすでに花開いていました。

 あぁ、雨が降ってきました。予報より早すぎます。まだ8時半なのに

 急いで帰らなくては
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