ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

回想22 「北海道訪問記 最終」-帰路に着く

2013-12-21 11:00:00 | 旅行
 3月9日、学校での日程をすべて終え、宿所に向かおうと体育館を通ると、1部の学生たちが藤代先生指導の下、サッカーをしていた。





 練習の邪魔にならないようにそっと歩いていたら壁に「折鶴の絵」が見えたので立ち止まった。



 「私たちの夢、私たちの心プロジェクト・北海道」と書かれた壁新聞が貼ってあった。。

 朝鮮高校授業無償化実現のため、国連に折鶴と私たちの代表を送ろうと、群馬のオモニ会の皆さんが全国の同胞たちに呼びかけた事を北海道でも率先して行動に移してくれているのだ。卒業式の日、卒業式に参加してくださった皆さんに呼びかけて鶴を折ってもらいワンコインカンパをしていただいている様子がFbで紹介されていたことを思い出した。胸が熱くなった。

 短い間ではあったが、思い出が一杯できた。

 温かい寄宿舎、おいしかった食事、素晴しい環境を整えた施設、雪の中に潜るようにして雪かきをしていらした先生方、明るい笑顔で美味しいコーヒーとケーキをごちそうしてくださった若い女教師の皆さん、そして何よりも休校にも関わらず学校に登校して下さり教育講演会に参加してくださった教職員の皆さんに対する感謝の気持ちでいっぱいになった。



 







 アンニョンヒ!(さようなら)、またいつか訪れることができるだろうか。いいえ、またいつかきっときます!

 みなさんに別れを告げて学校を後にした。

 宿所に行く前に私の娘の同級生の李さんのお家に寄ることになった。私は明日又この家にお邪魔するけど、河津さんとは今日でお別れになるので少しだけ李さん宅に一緒に寄ることになった。

 李さんご夫婦は私の娘と大学時代4年間、同じクラスだった。特に奥様の李さんは娘と空手のクラブも同じでとても仲の良い親友同士だったそうだ。

 李さんとは昨年6月東京の中野で行われた「モンダンヨンピル」のコンサートでも偶然お会いしたのだが、娘からも必ず会ってきてねと頼まれていた。



 やさしい笑顔で李さんが迎えてくれた。コーヒを入れてくれている間、ご主人の金先生が部屋を案内してくださった。至る所に本があり、至る所に家族の写真が飾ってあった。アットホームな家族像がそこにあった。

 居間兼食堂の食器棚には、なんと共和国の国旗がプリントされたコーヒーカップが飾ってあった。嬉しがりな私たちは中から取り出してもらってまじまじと見つめさせてもらった。





 金先生の車で宿所にむかった。すでに雪が降り始めていた。

 宿所に荷物を預けジンギスカン焼きの元祖「ダルマ」屋に向かった。金先生のハルモニとオモニが築き上げたお店だという。

 河津さんご夫婦と一緒に羊の肉を生まれて初めて食べた、今まで食わず嫌いだったというか、食べる機会が無かったというか。

 一緒に焼いて食べる玉ねぎと白ネギがなんて美味しいのだろう。オモニムが自ら作られたというキムチとチャンジャも本当に美味しかった。





 宿舎に着いた。

 次の日の朝、9時半に金先生が迎えに来てくださった。夜中中大雪が降り、最低気温はマイナス6度だという。飛行機が飛ぶかどうか判ら無い状態だ。無事帰れるだろうか、テレビでは運行が不可になった列車や欠便になった飛行機の案内を続けていた。

 10時過ぎ李さんのお宅に到着した。子供さんたちが私の歓迎公演をしてくれるという。



 天真爛漫な4人のお子さんたちが歌を歌ってくれた。





 息子さん二人はテコンドを見せてくれた。



 李さんと子供さんとで歌も歌ってくれた。そればかりではない。



 「ようこそおいでくださいました。」と書かれたケーキまで準備してくださっていたのだ。

  私は大雪の事も飛行機の事も一時忘れ子供たちの歌に聞きほれていた。

 美味しいケーキとコーヒーを戴いた後、私もお返しのつもりで、今回高学年用に準備してきたが休校のため中止になった「ウリマルの基礎発音の練習」と「教科書朗読」の練習を約1時間子供たちと一緒に楽しく行った。





 1時間はあっという間に過ぎてしまった。日常的にウリマルを良く使い、本も良く読み、音読を常にしていたようなので、呑み込みがとても早かった。4人ともみんな、声も良いし発音もとても良い、2年生の末っ子ちゃんだけは少し退屈そうにしていたので申し訳ない気がした。高学年用の資料なので2年生には少し難しかったと思う。

 3時10分発の飛行機だが12時には出発させていただいた。6人でJr札幌駅まで見送ってくださった。なんとお昼弁当や電車のチケットまで準備してくださっていた。本当に申し訳なかった。いくら娘のお友達とはいえ、こんなに手厚く迎えてもらい感謝感謝の2時間だった。

 

 飛行場に着いた。先ほどまでの猛吹雪はどこへ行ったのやら、大雪がピタリと止まり、青空が新千歳空港の上空一面に広がった。







 飛行場に着いたけど欠航かどうかはぎりぎりまでわからない。約1時間遅れているそうだ。とにかく先に搭乗手続きを済ませ、先ほどいただいたお弁当を待合室で美味しく頂いた。







 3時10分発が4時15分発になったけど何とか大阪に帰れる見通しがたった。ついに離陸の瞬間が来た。

















 無事関空に着いた。格安ピーチの運命だ。第2ターミナルから第1ターミナルまで移動しなければならない。飛行場について上六行きのバスが出発するまでなんと1時間以上かかったのだ。

 バスの中から観覧車が見えた。もうすぐだ。









 上六には夫が迎えに来てくれていた。9時にやっと家に到着した。李さんのお宅を出てから丸々9時間が過ぎていた。

 楽しく、感動的で幸せ一杯の北海道訪問だった。皆さんに心から感謝いたします。



 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想21  「北海道訪問記④」-ウリマルに対する講演

2013-12-21 10:52:43 | 旅行


 猛吹雪の中、学校が臨時休校になり、高学年対象の「朗読の練習」も、中高生対象の「ウリマルの大切さに対する講演」も、オモニたちを対象にした「子供たちと楽しむウリマルの勉強」も、すべて中止になった。

 しかし学校側の配慮で急遽、教職員を対象とした講演会が催され10時半から1時間は私、11時40分から1時間は河津さんが講演をすることになった。



 教職員を対象にした講義案の準備はしてこなかったが、中高生を対象にした講義の内容を基本にして、自然にしゃべろうと思った。

 ①私が北海道にきた理由 (詩「ふるさと」をウリマルで朗読)

 ②ウリマルを武器にして生きて行こうと決心した契機と体験談

 ③2003年6月公州で行われた「第21回韓国演劇祭」に出演したときのお話

  *結びの言葉

 

 ①で 

  私はまず、今、何処で何をしながら日々を過ごしているのかを簡単に説明し、北海道のウリハッキョを訪ねることは私の夢であったことを話した。

  その訳を長々話すよりも、なぜウリマルでしか詩を書いたことが無かった私が、日本語で詩を書かなければならなかったのかを説明し「朝鮮学校無償化除外反対」を訴えるため書いた詩「ふるさと」をウリマルで朗読した。

  
   「 ふるさと 」



生まれ育ったところが故郷だと
誰が言ったのだろう
私には故郷なんてなかった
ふるさとがなかった

60年が過ぎた今も
両足首に残ったゴム紐の痕を見ると 
知らぬ間に涙が出る
優しかったオモニを思い出す 

北海道にいるという父を訪ねて
身重の母は姉と次兄の手を引き
幾度も幾度も列車を乗り継いだ
風呂敷包みひとつ頭に載せ

突然津波のようにやって来た陣痛
青森の小さな旅館の布団部屋で 
私をこの世に生み出してくれたオモニ 
自分の歯でへその緒を切ってくれた母

6ヶ月後に北海道に渡り
馬小屋で寝起きした日々 
函館の海でいか裂きしながら 
私達を育ててくれたオモニ

零下20度の凍て付くような浜風
私をおぶって浜で働いたオモニは
私の靴下が脱げない様
ゴム紐をきつくきつくまきつけた

青森から北海道へ
北海道から東京へ
東京からやっと京都に戻ったとき
私は5歳になっていた

生まれて初めて会ったハラボジ
空襲で1本足になったハラボジ
ハラボジのリヤカーに毎日乗って   
声張り上げた《ボロおまへんか》と
 
あの路地この路地、一緒に回った日々
いつも聞かせてくれた故郷のはなし
ハラボジが出してくれた出生届
出生地はいつの間にか京都市になっていた

家族そろって大阪に移り
りっぱな朝鮮人になれと
父、母が送ってくれたウリハッキョ
満員電車に押し込められて通った学校

初めて通ったウリハッキョは
藻川に沿った小さな小さな学校
体育の時間は広い川原でころげまわり
図工はのどかな川辺でいつも写生

麦飯とキムチだけの弁当
雨の日あちこちにバケツが並んでも
暖かい先生や友達に囲まれて
ちっともイヤじゃなかった、楽しかった

ア、ヤ、オ、ヨ…
歌う様にハングルを習い
子ども心に誓った
将来は故郷のアナウンサーになるんだと
    
ウリハッキョで学んだ日々
恋もし、喧嘩もし、悩みもしながら
進路について話し合った懐かしい日々
一度もなかった。孤独な時なんて

同胞のために頑張ろうと仕事を選び
済州島に住む長兄に会う日を夢見ながら
集会にも、デモにも参加した日々
夢は近づいては遠のいたり

疲れを知らなかった青春時代
休むことを忘れてた中年時代
突然悪夢の様に悲しみが押し寄せた日

それでも踏ん張れよと諭してくれた
それがウリハッキョ
オモニの様に温かかったウリハッキョ

生まれ落ちた場所さえ知らない私に
思い出と友と夢と勇気をくれ
愛する心を育ててくれたウリハッキョ

私にも祖国が在る事を教えてくれた
ウリハッキョはゆるぎない心の柱
私のふるさとは ウリハッキョ

決して誰も奪えない
私が通い、子供達が学び、孫達が通う
ウリハッキョ 心のふるさとを!

     2010.7

 ①では、主に

 自分の生い立ちを詩で詠んだ後、補足的に、京都で祖父(ハラボジ)と生活する中で芽生えた民族心と、国を奪われ、言葉まで奪われた悲しい過去を2度と繰り返してはならないと教えてくれた祖父の影響が、自分の人生でとても大きかったことを話した。

 そして幼いころの夢であった故郷のアナウンサーにはなれなかったけれど、高級部卒業と同時に歌舞団で活動したこと、同胞たちの民族愛、同胞愛、学校愛に感動し、20歳の時初めてウリマルの詩を書いたときの話をし、その時から今日まで中断することなく詩を書き続け、ウリマルの勉強を続けてきたことを話した。同時に活動しながら通信教育の恩恵を受け、文学の勉強をさせてもらった話をした。

 ②では、主に

 歌舞団、女性同盟、文芸同で活動を続けていた私が、末息子の大きな病を契機に33歳の時、4人の子供を抱えながらも国語教員になったときのお話をさせていただいた。

 新米教員だったとき、学生たちが授業に集中してくれず悩んだ話や、夜中の1時、2時まで授業の準備を一生懸命しても、授業がうまくいかず更衣室で泣いていたとき、先輩教員がいつも励ましてくれた話や、失敗談などありのままを話した。

 そして諦めることなく努力を続け、ついに2重模範教授者の栄誉を受けるに至ったことを淡々と話した。


 
 ③では、主に

 南北共同声明が発表されたおかげで2003年6月,第21回韓国演劇祭に東京の「アランサムセ」と一緒に、私も所属する文芸同大阪の演劇部が招待され、1か月余り12時、1時まで練習をし、ついに故国の地を踏み公州で舞台に立った日の感動を話した。

 自分が民族教育を受けず、ウリマルの勉強を続けていなかったとしたら、故国で演劇の舞台に立つことは不可能であったことを話した。

 そして私たちが民族教育を通じて学んできたウリマルが故国の人たちに十分通じ、大きな感動をもたらしたことを話し、これからも私たちのウリマルに自信を持って生活していこうと、私たちはウリマルを通じ南北をつなぐ架け橋の役割を担おうと呼びかけた。

 最後に二つの事を話した。先日大阪で行われた康宗憲さんの講演会の時に胸に響いた言葉の要旨「楽観的に生きよう、悲観から生まれるものは何もない、今は相手がとてつもなく大きく見えるかも知れないが胸を張って堂々と生きて行こう、正義は我にあるのだから」と仰った話を伝えた。

 そして最後の最後に、ハーモニー共和(老人施設)を学生たちと慰問で訪ねたとき、聞いた話をした。

 1世のハラボジ、ハルモニ達が年老いてから日本語を忘れ、幼いころ使っていたウリマルしか喋れなくなるという話をしながら私も年老いてこの世を去るとき、日本語じゃなく無意識の内にもウリマルを呟きながら人生を終えたいと語り、話を結んだ。

 講演を終えたとき、二人の先生が近付いてこられた。おひとりは 故 李好美先生の遺志を継いで教員になられた崔先生。

 崔先生と抱き合って再会を喜んだ。崔先生は私が話をしている間ずっと泣いておられた。きっとオモニの事を思い出しておられたのだろう。




 もう一人は私が兄の名前を言った時、演壇からでもわかるぐらいびっくりされていた金先生。兄が新任教員だったときの教え子だったそうだ。




 続いて詩人の河津さんが無償化除外反対運動を続けてきた3年間の活動内容をわかりやすく話された。



それから、自分が朝鮮学校問題に拘わることになったきっかけを話され、尹東柱の詩を通して比喩の素晴らしさについて話された。



 又、京都朝高で詩の特別授業をしている話や、朝鮮学校の学生たちの詩に対し評価をし、学生たちが書いた詩をいくつか紹介された。そして最後に自作詩「ハッキョへの坂」を朗読された。




 

 午後からは女教師たちとの交流会を企画してくださった。とても素敵な喫茶店で美味しいケーキをいただきながら話は弾んだ。

北海道の先生方はとても美しい!容姿も心も。いつも子供たちの成長を自分自身の喜びと感じ、子供たちのために惜しげもなくすべてをささげる素晴らしい精神の持ち主で有るからだろう。

 オモニ教員が一人もいらっしゃらないのがとても寂しいと仰っていた。私は彼女たちがオモニ教員になっても、いつまでも頑張ってほしいと思った。







 2時間以上も楽しい時間を過ごした。学校に戻ると夕日が雪を照らし、まるでガラスのように雪がキラキラ光っていた。























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想⑳ 3月9日 「北海道訪問記③」ー「北海道同胞歴史資料館」

2013-12-21 10:40:19 | 旅行
 3月9日午前、猛吹雪のため休校になった学校で、これからどうなるのかなぁと心配していたら、教務主任先生が9時半からチェ・ホンチョル支部委員長が「北海道同胞歴史資料館」を案内してくださるとのこと。

 そして「10時半からは教職員を対象に1時間づつお二人が講演してください」との伝達があった。

 私たちは9時半までの間、校内や教室等を見学することになった。廊下や教室には歴代の卒業生たちが「学校に残してくれた記念の作品」があちこちに掲げてあった。





 初級部のすべての教室の時間割は51期卒業生が作ってくれたものだ。











 全てのものをお見せできないのが残念だ。

 心のこもった掲示物が学校を我が家のように、わが故郷のように暖かいものにしてくれていた。



























 9時半チェ先生がお見えになった。校長室を見渡してみると棚に「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」が見えた。

 詩人の河津さんと私が、79人の日本と在日コリア詩人たちの作品を一つにし作り上げたものだ。



 また、学校の全景を写した写真が額に入れて飾られていた。





 チェ先生と挨拶を交わした後「北海道同胞歴史資料館」を案内していただいた。(1部を公開いたします。)

 資料館のタイトルは「ノク」(魂)だ。































































 日帝時代から今日までの出来事を年代別に整理し、強制連行や朝鮮人弾圧の貴重な証拠の書類などがきちっと整理されてあり、とても丁寧に同胞たちの歩んできた戦いの歴史、民族権利を守るための戦いや、学校建設や同胞たちの喜びなどを知らせてくれました。このような資料館が府や県に一つずつあればどんなに良いでしょう。

 記録、足跡を残すことの大切さをしみじみと感じました。過去があり未来があるのです。

 後世のため我々には足跡をしっかり記録し残す義務があると心の底から思いました。

 私自身も「火曜日行動」などの写真を毎週撮っていますが、これも記録すること、歴史を残すことの一つだと思って頑張っています。

 
                       

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想⑲ 3月9日 「北海道訪問記②」―感動的なウリハッキョの朝

2013-12-21 10:36:33 | 旅行
3月9日、今日はいよいよ講演会の日です。

 朝、気持ちよく目がさめ窓の外を見ると、なんと吹雪いています。真っ白です。





 若い女の先生が部屋に来られました。

 「今日、猛吹雪と寒波のため休校になりました。変更された予定は又後で伝えにきます。ミアナムニダ」

 唖然としました。こんなことが本当にあるのかと一瞬耳を疑いましたが窓の外を見るとこれは本当だと実感できました。

 窓を開けるとゴーゴー音を立てながら右から左へと横向きに雪がふぶいていました。









 食堂でオモニたちが準備してくださった朝食を学生たちと一緒にいただき、校内を見学しょうと回っていると、先生や寄宿生たちの除雪作業が始まっていました。





 東大阪中級の卒業生の尹先生です。雪の中に潜るようにして排水溝をふさいでいる雪を除去されていました。感動で涙が出ました。

 生野と南大阪で教員として頑張っていらっしゃるご両親に、この場面を是非お見せしなければと思いました。

 弟さん(私の教え子)は福島のウリハッキョに自主志願し、あっちで頑張っています。素晴しい家族です。









 藤代先生も頑張って除雪していました。







 懐かしい故 チョ・ウンリョン監督を偲んで植えられた梅の木も半分雪の中に埋まっていました。

 昔と一つも変わらない美しい笑顔で私を見つめてくれました。そっと目をつぶり、手を合わせると懐かしい思い出が走馬灯のように浮かび上がりました。

 2002年だったと思います。彼女が私の前に現れたのは。私の勤めていた東中に彼女が来たのです。来た瞬間から彼女は客では無く、すぐに子供たちや先生たちと打ち解け、控えめながらなんでも質問しました。すぐに意気投合した私たちは歳の差を越え仲良しになりました。

 それから何日かして私は夜、彼女を文芸同演劇部の練習に誘いました。本物のウリマルを盟員たちにも聞かせたかったからです。

 彼女はやはり控えめながら一緒に練習に参加してくれました。素朴で暖かくて美しくて、彼女はすぐみんなの憧れの的になりました。

 私は次の日の朝、前日の残り物で彼女のお弁当を作って学校に持っていきました。食べた後きれいに洗った弁当箱の上には小さなメモがありました。「この世に生まれてこんな美味しいお弁当を食べたのは初めてです。コマッスムニダ」と

 お世辞だということは100%わかっていても、残り物の適当なお弁当にこんな嬉しい返事をくれる彼女が大好きになりました。

 それから何か月かたって、彼女がミョンジュン監督と結婚することになったと知らせてくれました。

 私はあまりにも嬉しくて、その時代の校長先生と一緒に、ソウルに祝電を送りました。そのことが嬉しかったのか、しばらくして結婚式の礼服姿のお二人の写真を送ってくれました。それらは今も私の宝物として大事に保管してあります。彼女との出会いは南の姉妹たちに対する根深い不信感を取り除いてくれ、祖国は一つだと実感させてくれたのです。

 2003年4月10日不慮の事故で自宅で彼女が亡くなりました。4月15日東中の会議室でご両親、弟さん、ミョンジュン監督を迎え、追悼式を行い、私も追悼の言葉を述べさせていただきました。

 運動場の花壇には花梨の木をみんなで植えウンリョン監督の遺灰をまきました。(またいつか彼女との思い出話を書きますね。)






 校内を回りました。







 体育館では休校中ですが日本学校の生徒さんたちが運動をしていました。(日本学校は土曜日がお休みなのでウリハッキョの体育館でいつも練習しているそうです。素敵なことだと思いました。)



 体育館を通り校内を少しだけ回りました。



















 9時になり、校長室にはいりました。今日の予定を聞くためです。

 なんと校長室には朋友―故 李好美先生の遺影を飾ってくれていました。私が北海道に行く前お願いの一つとして、李先生の霊前に線香をあげたいと言っていたのを、ちゃんと覚えてくれていたのです。

 李先生とは1998年の8月、約3週間、祖国での国語講習会でご一緒しました。本当に暖かい方でした。

 お部屋の掃除や見の周りの世話をしてくださるオモニたち一人一人に、お土産の靴下まで準備されてきたような方でした。

 お話がとても面白くて冗談好きで、いつも一緒に笑ってばかりいました。日本に帰ってからも、北海道で採れたジャガイモは最高だと言って段ボール箱で送ってくれました。私もコリアタウンのキムチを送って、大阪はキムチやでと冗談言ったのが昨日の事の様です。



 李先生の遺影に向かい心の底から手を合わせご冥福をお祈りいたしました。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想⑱  3月8日 「北海道訪問記①」―夢はかなうものなのですね。

2013-12-21 10:31:44 | 旅行
 

 私には夢がたくさんありました。

 その一つは生まれた場所も知らなかった自分自身のルーツを探すことでした。

 青森で生まれ6か月後に北海道へ、2年後に北海道から東京へ、その1年後に東京から京都へ、1年半後に京都から大阪へ。

 還暦を迎え退職したら、すべての地をこの足で一度辿ってみよう。願わくば、私に繋がるすべてのウリハッキョを訪ねて子供たちとウリマルのお話、ウリマルの勉強をしよう。(可能ならば全国のウリ八ツキョを訪ねて子供たちとウリマルの勉強の楽しさを分かち合おう。)それが私の夢でした。

 順不同で60才になった秋の日に、私が幼い時過ごした京都の東福寺を訪ね、感無量のひとときをすごしました。

 その次にはお正月休みを利用して北海道の函館に行きました。格安の298のツアーを利用し1日はレンタカーを借り、今は名前が変わった函館の恵山町を訪ね、姉が通っていた東小学校(昔は銭亀小学校と言った)を訪ね写真も一杯撮ってきました。

 父母が働いていたという函館の港へも出向き、雪降る中、海岸を歩きました。ここが私をおぶって母がイカ裂きをしていたところなのか、ここで私の足首に一生消えることのないゴムひもの跡が付いたのか、考えるほどに涙がこぼれました。

 そして2年前の今日3月11日、東日本大震災を目の当たりにしました。繰り返し報道された津波に流される家や車、逃げ惑う人々を見ながら、恐怖は悲しみに変わり、深い悲しみの中で「人間の生死はいつどうなるかわからない。短い人生だ。後悔の無いように生きよう」と思うに至りました。

 震災後、東北や福島、茨城の同胞と子供たちのニュースを聞くたび、見るたび、探していかねば、私にもできることがあるはずだと思い、復興支援のチャリティコンサートにも自作の詩を持って積極的に参加しました。

 東北のウリハッキョでのチャリティコンサートが決まった時、「生まれた場所を探してみよう!」と決意し「青森県平川市碇ヶ関支所」に手紙を送り協力を求めたところ、1か月後に連絡が来てついに青森行きが決定しました。

 東北でのコンサートが終わった翌日、高速バスで仙台から弘前に行き、電車で4駅の無人駅碇ヶ関に降り立った時のあの感動!

 夢が一つづつ現実にかなっていくことが不思議なくらいでした。

 青森から帰り今度は、28年間務めた東大阪中級からのオハーで「創立50周年を記念しての講演会」へも出演させていただきました。

 昨年11月には母校大阪朝高からのオハーで全校生の前で「朝高時代の思い出話とウリマルに関するお話」もさせていただきました。

 今年の2月23日は中級時代を過ごした北大阪からオハーがあり「チェジャリ」公演にも自作の詩を学生たちと一緒に朗読させていただきました。嘘みたいに夢がどんどん適っていきました。

 そして3月ついに北海道のウリハッキョに行く決心をしたのです。

 誰が呼んでくれたのでもなんでもありません。私が行きたかったのです。

(河津さんのご主人がタイミング良く、3月の9,10と北海道で仕事をされるので、その日に合わせて思い切って北海道に行こうと河津さんとふたりで決めたのです。)



 3月8日、格安のピーチに乗って、無償化運動を共に行ってきた河津さんと一緒に北海道に向かいました。



 新千歳空港を降り立ち、大谷地行きの高速バスを待ちました。

 5時45分発のバスに乗り、6時半過ぎ迎えに来てくださった金先生と共に、ある場所に向かいました。





 昨年3月15日、大阪で講演してくださりお友達になった藤代先生が、私たちを待っていてくださったのです。

 私の大事な先輩の息子さんである朴先生もご一緒でした。交流していらっしゃる日本学校の先生お二人も一緒でした。





 藤代先生と1年ぶりの再会を喜び合い、初めてお目にかかる先輩の息子さんと熱い握手を交わしました。

 日本学校の先生たちとも、まるで旧知のように交流することができました。

 夜10時寄宿舎に到着しました。



 206号室が私たちの宿所になりました。なんて温かくてかわいい部屋でしょう。ホテルの何十倍も素敵だと思いました。










 明日は1時間目は中高生を対象に講義です。

 2時間目は初級部高学年を対象にウリマルの話術、朗読の指導です。

 3,4時間目は初級部低学年の学習発表会の鑑賞です。

 午後からはオモニたちへの講義「子供たちと楽しむウリマルのお勉強」です。

 スケジュールはハードだけど来たからには頑張らねばと準備した講義案を何回も読み返しました。

 11時にはお布団の中に入りましたが河津さんとお話をしていたら12時になりました。

 話は尽きなかったけど明日の事をおもって寝ようということになりました。

 朝6時半、予期せぬとんでも無いお知らせが舞い込んできました。(明日に続く)





 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする